も表の格子は閉めてあったが、入口の障子も奥の襖もあけ放して、外から家内をのぞくことが出来るので、彼もまず格子の外から覗いてみた。もとより狭い家だから、三尺のくつぬぎを隔てて家じゅうはすっかり見える。寄付《よりつき》が二畳、次が六畳で、それにならんで三畳と台所がある。うす暗いのでよく判らないが、さのみ住み荒らした家らしくもない。
これなら気に入ったと思いながらふと見ると、奥の三畳に一人の婆さんが横向きになって坐っている。さては留守番がいるのかと、彼は格子の外から声をかけた。
「もし、御免なさい。」
ばあさんは振向かなかった。
「御免なさい。こちらは貸家でございますか。」と、彼は再び呼んだ。
ばあさんはやはり振向かない。幾度つづけて呼んでも返事はないので、彼は根負けがした。あのばあさんはきっと聾に相違ないと思って舌打ちしながら表へ出ると、路地の入口の荒物屋ではおかみさんが店先の往来に盥《たらい》を持出していたので、彼は立寄って訊《き》いた。
「この路地の奥の貸家の家主さんはどこですか。」
家主はこれから一町ほど先の酒屋だと、おかみさんは教えてくれた。
「どうも有難うございます。留守番のおばあさんがいるんだけれども、居眠りでもしているのか、つんぼうか、いくら呼んでも返事をしないんです。」
彼がうっかりと口をすべらせると、おかみさんは俄かに顔の色をかえた。
「あ、おばあさんが……。また出ましたか。」
この落語家はひどい臆病だ。また出ましたかの一言にぞっとして、これも顔の色を変えてしまって、挨拶もそこそこに逃げ出した。もちろん家主の酒屋へ聞合せなどに行こうとする気はなく、顫《ふる》えあがって足早にそこを立去ったが、だんだん落ちついて考えてみると、八月の真っ昼間、暑い日がかんかん[#「かんかん」に傍点]照っている。その日中に幽霊でもあるまい。おれの臆病らしいのをみて、あの女房め、忌《いや》なことを言っておどしたのかも知れない。ばかばかしい目に逢ったとも思ったが、半信半疑で何だか心持がよくないので、その日は貸家さがしを中止して、そのまま師匠の家へ帰った。
この年は残暑が強いので、どこの寄席も休みだ。日が暮れてもどこへ行くというあてもない。
「今夜は二十六夜さまだというから、おまえさんも拝みに行っちゃあどうだえ。」
師匠のおかみさんに教えられて、彼は気がついた。今夜
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