うな」
あしたはもう一度たずねて行って、今度はなんといって口説き伏せようかと、彼は疲れ切った神経をいよいよ尖らせて、秋の夜長をもだえ明かした。あかつきの鶏の啼く頃から彼は又もや熱がたかくなった。
「それお見やれ。しかと癒り切らぬ間《ま》にうかうかと夜歩きをするからじゃ」と、彼は叔母から又叱られた。叔父からも命知らずめと叱られた。
そうして、四日ばかりは外出を厳しく戒められた。
いかにあせっても、千枝松は動くことが出来なかった。四日目の朝には気分が少し快くなったので、叔母が買物に出た留守を狙って、彼は竹の杖にすがって家を這い出した。三、四日のうちに今年の秋も急に老《ふ》けて、畑の蜀黍《もろこし》もみな刈り取られてしまったので、そこらの野づらが果てしもなく遠く見渡された。千枝松は世界が俄に広くなったように思った。そうして、晴ればれしいというよりも、なんだか頼りないような悲しい思いに涙ぐまれた。彼は重い草履を引きずってとぼとぼと歩いて来た。
藻の門《かど》の柿の梢がようように眼にはいったと思う頃に、彼は陶器師の翁に逢った。翁は野菊の枝を手に持って、寂しそうに俯《うつ》向き勝ちに歩いていた。ふたりは田圃路のまん中で向かい合った。
「じいさま。どこへゆく」
挨拶なしで行き違うわけにもいかないので、千枝松の方からまず声をかけると、翁はゆがんだ烏帽子を押し直しながら、いつもの通りに笑っていたが、その頤《あご》には少し痩せがみえた。
「これじゃ。婆の墓参りじゃ」と、彼は手に持っている紅い花を見せた。
「婆どのが死んだか」と、千枝松もさすがに驚かされた。「いつ死なしゃれた。急病か」
「おお、丁度おまえが来て、いさかいをして帰った晩じゃ」
その夜ふけにそっと戸を叩いた者がある。婆はいつもの寝坊に似合わず、すぐに起きて戸をあけた。外には誰が立っていたのか知らないが、彼女はそのままするり[#「するり」に傍点]と表へ出て行って、夜の明けるまで帰って来なかった。翁も不思議に思って近所に聞き合わせたが、なにぶんにも夜更けのことで誰も知っている者はなかった。だんだんあさり尽くした揚げ句に、翁はふと過日《かじつ》の杉の森を思いついて、念のために森の奥へはいってみると、婆は藻と同じようにかの古塚の下に倒れていた。しかし彼女は何者にか喉を啖《く》い破られていて、とてもその魂を呼びかえすすべはなかった。葬いは近所の人たちの手を借りて、その明くる日の夕方にとどこおりなく済ませたと、翁も顔をくもらせながら話した。
千枝松も眉を寄せて、この奇怪な物語に耳をかたむけていると、翁はまた言った。
「わしの考えでは、それもみんな古塚の祟りじゃ。わしらがあの森の奥へむざと踏み込んだので、その祟りがわしの身にはかからいで、婆の上に落ちかかって来たのじゃ。婆めは塚のぬしにひき寄せられて、あの森の奥に屍《しかばね》をさらすようになったのであろう。千枝ま[#「ま」に傍点]よ、お前もまんざら係り合いがないでもない。婆めはあの丘の裾に埋めてある。暇があったら一度はその墓を拝んでやってくれ。生きている間は仇同士のようにしていても、死ねば仏じゃ。どうぞ回向《えこう》を頼むぞよ」
こう言っているうちに、翁はだんだんにふだんの笑顔にかえった。しかし千枝松は笑っていられなかった。俄に物の祟りということが怖ろしくなってきて、さらでも寒い朝風に吹きさらされながら彼は鳥肌の身をすくめた。
「それは気の毒じゃ。わしもきっと拝みにゆく」
翁に別れてふた足三足行きかかると、彼はあとから呼び戻された。
「千枝ま[#「ま」に傍点]よ。まだ言い残したことがある。藻《みくず》はもう家にいぬぞよ」
千枝松の顔色は変わった。翁は戻って来て気の毒そうに言った。
「婆めの弔いのときには藻も来て手伝うてくれたが、その明くる日に、都から又お使いが来たそうで、すぐに御奉公にあがることに決まって、きのうの午頃《ひるごろ》にいそいそして出て行ったよ」
渡り鳥が二人の頭の上を高くむらがって通ったので、翁は思わず空をみあげた。千枝松は俯向いてくちびるを噛んでいた。
「詳しいことは庄司どのにきいてお見やれ。婆がいなくなったので寂しゅうてならぬ。わしが家へも相変わらず遊びに来てくれよ」
千枝松はうなずいて別れた。
仇のように憎んでいた疫病婆でも、その死を聞けばさすがに悲しかった。その奇怪な死にざまは更に怖ろしかった。しかし今の千枝松に取っては、婆の死も塚の祟りももう問題ではなかった。彼は半分夢中で藻の家へ急いでゆくと、行綱は蒲団の上に起き直っていた。
「おお、いつも見舞うてくれてかたじけない」と、行綱はいつになく晴れやかな眼をして言った。「そなたと仲好しであった藻は、関白殿の屋形へ召されて行った。わしもまだ起き臥しも自由でない身の上で、介抱の娘を手放してはいささか難儀じゃと思うたが、第一にはあれの出世にもなること、ひいてはわしの仕合わせにもなることじゃで、思い切って出してやった。行く末のことは判らぬが、一度御奉公に召されたからは五年十年では戻られまい。そなたも藻とは久しい馴染みじゃ。娘の出世を祝うてくりゃれ」
千枝松はもう返事が出なかった。聞くだけのことを聞いてしまって、彼はすぐに外へ出ると、門の柿の梢には鴉のついばみ残した大きい実が真っ紅にただれて熟して、その腐った葉が時どきにはらはらと落ちていた。彼は陰った眼をあげてその梢をみあげているうちに、熱い涙が頬を伝って流れ出した。
藻は自分を捨てて奉公に出てしまった。五年十年、あるいはもう一生戻らないかもしれない。それを思うと、彼はむやみに悲しくなった。来年から一人前の男になって烏帽子折りのあきないに出るという楽しみも、藻というものがあればこそで、その藻が鳥のように飛んで行ってしまって、再び自分の籠《かご》には戻らないと決まった以上、自分はこの後になにを楽しみに働く。なにを目あてに生きてゆく。千枝松はこの世界が俄に暗黒になったように感ずると同時に、まだほんとうに癒り切らない病いの熱がまた募ってきた。彼の総身《そうみ》は火に灼《や》かれるように熱くなった。彼は息苦しいほどに喉がかわいてきたので、隣りの陶器師のうちへ転げ込んで一杯の水を飲もうとしたが、翁の留守を知っているので、さすがに遠慮した。彼は杖を力にして近所の川べりへさまよって行った。
ここは藻と一緒にたびたび遊びに来た所である。このあいだも十三夜のすすきを折りに来た所である。二人が睦まじくならんで腰をかけた大きい柳はそのままに横たわって、秋の水は音もなしに白く流れている。千枝松は水のきわに這い寄って、冷たい水を両手にすくってしたたかに飲んだが、総身はいよいよ燃えるようにほてって、眼がくらみそうに頭がしんしんと痛んで来た。彼はもう立って歩くことが出来なくなったので、杖をそこに捨ててしまった。蟹のように這ってあるいて、枯れた蘆やすすきの叢《むら》をくぐって、ともかく往来まで顔を出したが、彼はまた考えた。
「もういっそ、死んだがましじゃ」
藻を失った悲しみと病いにさいなまるる苦しみを忘れるために、いっそこの水の底へ沈んでしまおうと、彼は咄嗟《とっさ》のあいだに覚悟をきめた。彼は再び水のきわへ這い戻って、蒼ざめた顔を水に映した一刹那に、うしろからその腰のあたりを引っ掴んで不意にひき戻した者があった。
「これ、待て」
それは下部《しもべ》らしい小男であった。くずれた堤の上にはその主人らしい男が立っていた。もう争うほどの力もない千枝松は、子供につかまれた狗《いぬ》ころのように堤のきわまでずるずると曳き摺られて行った。
「お前はそこに何をしている」と、主人らしい男は彼に徐《しず》かに訊いた。男は三十七、八でもあろう。水青の清らかな狩衣《かりぎぬ》に白い奴袴《ぬばかま》をはいて、立《たて》烏帽子をかぶって、見るから尊げな人柄であった。彼は鼻の下に薄い髭をたくわえていた。優しいながらもどこやらに犯し難《がた》い威をもった彼の眼のひかりに打たれて、千枝松は土に手をついた。
「見れば顔色もようない」と、男は重ねて言った。「おまえは怪異《あやかし》に憑《つ》かれて命をうしなうという相《そう》が見ゆる。あぶないことじゃ」
「殿のおたずねじゃ。つつまず言え。おのれ入水《じゅすい》の覚悟であろうが……」と、下部は叱るように言った。
「わしは播磨守泰親《はりまのかみやすちか》じゃ。何者の子か知らぬが、おまえの命を救うてやりたい。死ぬる子細をつぶさに申せ」
泰親の名を聴いて、千枝松もおもわず頭をあげて、自分の前に立っているその人の顔を恐るおそる仰いで視た。播磨守泰親は陰陽博士《おんようはかせ》安倍晴明《あべのせいめい》が六代の孫で、天文|亀卜《きぼく》算術の長《おさ》として日本国に隠れのない名家である。その人の口からお前には怪異が憑いていると占われて、千枝松はいよいよ怖ろしくなった。
彼は泰親の前で何事もいつわらずに語った。泰親は眼をとじてしばらく勘考《かんこう》していたが、やがて又|徐《しず》かに言った。
「その藻とやらいう女子《おなご》の住み家はいずこじゃ。案内せい」
泰親はなにやら薬をとり出してくれた。それを飲むと千枝松は俄に神気《しんき》がさわやかになった。彼は下部にたすけられて行綱の家の前までたどってゆくと、泰親は立ち停まって家のまわりを見廻した。それから更に眉を皺めて家の上を高く見あげた。
「凶宅《きょうたく》じゃ」
柿の梢にはいつもの大きい鴉が啼いていた。
花《はな》の宴《うたげ》
一
それから年のこよみが四たび変わって、仁平《にんぺい》二年の春が来た。
この三、四年は疫病神《やくびょうがみ》もどこへか封じ込められて、そのあらぶる手を人間の上に加えなかった。ややもすれば神輿《じんよ》を振り立てて暴れ出す延暦寺の山法師どもも、この頃はおとなしく斎《とき》の味噌汁をすすって経を読んでいるらしい。長巻《ながまき》のひかりも高足駄の音も都の人の夢を驚かさなかった。検非違使《けびいし》の吟味が厳しいので盗賊の噂も絶えた。火事も少なかった。嵐もなかった。この世の乱れも近づいたようにおびえていた平安朝末期の人の心もいつか弛《ゆる》んで、再び昔ののびやかな気分にかえると、そのゆるんだ魂《たま》の緒《お》を更にゆるめるように、ことしの春はうららかに晴れた日がつづいた。野にも山にも桜をかざして群れ遊ぶ人が多いので、浮かれた蝶はその衣《きぬ》の香を追うに忙しかった。
関白忠通卿が桂の里の山荘でも、三月のなかばに花の宴《うたげ》が催された。氏《うじ》の長《おさ》という忠通卿の饗宴に洩れるのは一代の恥辱であると言い囃《はや》されて、世にあるほどの殿上人は競ってここに群れ集まった。濡るるとも花の蔭にてという風流の案内であったが、春の神もこの晴れがましい宴《うたげ》の莚《むしろ》を飾ろうとして、この日は朝から美しい日の光りが天にも地にも満ちていた。
風流の道にたましいを打ち込んで、華美《はで》がましいことを余り好まなかった忠通も、おととし初めて氏《うじ》の長者《ちょうじゃ》と定められてからおのずと心も驕《おご》って来た。世の太平にも馴れて来た。この当時の殿上人が錦を誇る紅葉《もみじ》のなかで、彼は飾りなき松の一樹と見られていたのが、いつか時雨《しぐれ》に染められて、彼もまた次第に華美を好むように移り変わって来た。もう一つには藤原氏の長者という大いなる威勢をひとに示そうとする政略の意味も幾分かまじって、きょうの饗宴は彼として実に未曽有《みぞう》の豪奢を極めたものであった。かねてこうと大かたは想像して来た賓客《まろうど》たちも、予想を裏切らるるばかりの善美の饗応《もてなし》には、そのやわらかい胆《きも》をひしがれた。あるじは得意であった。客もむろん満足であった。
思い思いに寄りつどって色紙や短冊に筆を染める者もあった。管絃《かんげん》の楽《がく》を奏する者もあった。当日の賓客は男ばかりではこちたくて興《きょう》が
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