衣《きぬ》を染めるような濃緑の草や木が高く生《お》い茂っていて、限りもないほどに広い花園には、人間の血よりも紅《あか》い芥子《けし》の花や、鬼の顔よりも大きい百合の花が、うずたかく重なり合って一面に咲きみだれていた。花は紅ばかりでない、紫も白も黒も黄も灼《や》けるような強い日光にただれて、見るから毒々しい色を噴き出していた。その花の根にはおそろしい毒蛇の群れが紅い舌を吐いて遊んでいた。
「ここはどこであろう」
千枝松は驚異の眼をみはって唯ぼんやりと眺めていると、一種異様の音楽がどこからか響いて来た。京の或る分限者《ぶげんしゃ》が山科の寺で法会《ほうえ》を営《いとな》んだときに、大勢の尊い僧たちが本堂にあつまって経を誦《ず》した。その時に彼は寺の庭にまぎれ込んでその音楽に聞き惚れて、なんとも言われない荘厳の感に打たれたことがあったが、今聞いている音楽のひびきも幾らかそれに似ていて、しかも人の魂をとろかすような妖麗なものであった。彼は酔ったような心持で、その楽《がく》の音《ね》の流れて来る方をそっと窺うと、日本《にっぽん》の長柄《ながえ》の唐傘《からかさ》に似て、その縁《へり》へ青や白の涼しげな瓔珞《ようらく》を長く垂れたものを、四人の痩せた男がめいめいに高くささげて来た。男はみな跣足《はだし》で、薄い鼠色の着物をきて、胸のあたりを露《あら》わに見せていた。それにつづいて、水色のうすものを着た八人の女が唐団扇《とううちわ》のようなものを捧げて来た。その次に小山のような巨大《おおき》い獣《けもの》がゆるぎ出して来た。千枝松は寺の懸け絵で見たことがあるので、それが象という天竺《てんじく》の獣であることを直ぐに覚った。象は雪のように白かった。
象の背中には欄干《てすり》の付いた輿《こし》のようなものを乗せていた。輿の上には男と女が乗っていた。象のあとからも大勢の男や女がつづいて来た。まわりの男も女もみな黒い肌を見せているのに、輿に乗っている女の色だけが象よりも白いので、千枝松も思わず眼をつけると、女はその白い胸や腕を誇るように露《あら》わして、肌も透き通るような薄くれないの羅衣《うすもの》を着ていた。千枝松はその顔をのぞいて、忽《たちま》ちあっと叫ぼうとして息を呑み込んだ。象の上の女は確かにかの藻であった。
さらによく視ると、女は藻よりも六、七歳も年上であるらしく思われた。彼女は藻のような無邪気らしい乙女でなかった。しかしその顔かたちは藻とちっとも違わなかった。どう見直してもやはり藻そのままであった。
「藻よ」と、彼は声をかけて見たくなった。もしそのまわりに大勢の人の眼がなかったら、彼は大きい象の背中に飛びあがって、女の白い腕に縋《すが》り付いたかもしれなかった。しかし藻に似た女はこちらを見向きもしないで、なにか笑いながらそばの男にささやくと、男は草の葉で編んだ冠《かんむり》のようなものを傾けて高く笑った。
空の色は火のように焼けていた。その燃えるような紅い空の下で音楽の響きが更に調子を高めると、花のかげから無数の毒蛇がつながって現われて来て、楽の音につれて一度にぬっと鎌首《かまくび》をあげた。そうしてそれがだんだんに大きい輪を作って、さながら踊りだしたように糾《よ》れたり縺《もつ》れたりして狂った。千枝松はいよいよ息をつめて眺めていると、更にひとむれの男や女がここへ追い立てられて来た。男も女も赤裸で、ふとい鉄の鎖でむごたらしくつながれていた。
この囚人《めしうど》はおよそ十人ばかりであろう。そのあとから二、三十人の男が片袒《かたはだ》ぬぎで長い鉄の笞《むち》をふるって追い立てて来た。恐怖におののいている囚人はみな一斉に象の前にひざまずくと、女は上からみおろして冷《ひや》やかに笑った。その涼しい眼には一種の殺気を帯びて物凄かった。千枝松も身を固くして窺っていると、女は低い声で何か指図した。鉄の笞を持っていた男どもはすぐに飛びかかって、かの囚人らを片っ端から蹴倒すと、男も女も仰《のけ》ざまに横ざまに転げまわって無数の毒蛇の輪の中へ――
もうその先きを見とどける勇気はないので、千枝松は思わず眼をふさいで逃げ出した。そのうしろには藻に似た女の華やかな笑い声ばかりが高くきこえた。千枝松は夢のように駈けてゆくと、誰か知らないがその肩を叩く者があった。はっとおびえて眼をあくと、高い棕梠《しゅろ》の葉の下に一人の老僧が立っていた。
「お前はあの象の上に乗っている白い女を識《し》っているのか」
あまりに怖ろしいので、千枝松は識らないと答えた。老僧は静かに言った。
「それを識ったらお前も命はないと思え。ここは天竺という国で、女と一緒に象に乗っている男は斑足太子《はんそくたいし》というのじゃ。女の名は華陽《かよう》夫人、よく覚えておけ。あの女は世にたぐいなく美しゅう見えるが、あれは人間ではない。十万年に一度あらわるる怖ろしい化生《けしょう》の者じゃ。この天竺の仏法をほろぼして、大千《だいせん》世界を魔界の暗闇に堕《おと》そうと企《くわだ》つる悪魔の精じゃ。まずその手始めとして斑足太子をたぶらかし、天地|開闢《かいびゃく》以来ほとんどそのためしを聞かぬ悪虐をほしいままにしている。今お前が見せられたのはその百分の一にも足らぬ。現にきのうは一日のうちに千人の首を斬って、大きい首塚を建てた。しかし彼女《かれ》が神通自在でも、邪は正にかたぬ。まして天竺は仏の国じゃ。やがて仏法の威徳によって悪魔のほろぶる時節は来る。決して恐るることはない。しかし、いつまでもここに永居《ながい》してはお前のためにならぬ。早く行け。早う帰れ」
僧は千枝松の手を取って門の外へ押しやると、くろがねの大きい扉《とびら》は音もなしに閉じてしまった。千枝松は魂が抜けたように唯うっとりと突《つ》っ立っていた。しかし幾らかんがえ直しても、かの華陽夫人とかいう美しい女は、自分と仲の好い藻に相違ないらしく思われた。化生の者でもよい。悪魔の精でも構わない。もう一度かの花園へ入り込んで、白い象の上に乗っている白い女の顔をよそながら見たいと思った。
彼はくろがねの扉を力まかせに叩いた。拳《こぶし》の骨は砕けるように痛んで、彼ははっと眼をさました。しかし彼はこのおそろしい夢の記憶を繰《く》り返すには余りに頭が疲れていた。彼は枕に顔を押し付けてまたすやすやと眠ってしまった。
二
第二の夢の世界は、前の天竺よりはずっと北へ偏寄《かたよ》っているらしく、大陸の寒い風にまき上げられる一面の砂煙りが、うす暗い空をさらに黄色く陰《くも》らせていた。宏大な宮殿がその渦巻く砂のなかに高くそびえていた。
宮殿は南にむかって建てられているらしく、上がり口には高い階段《きざはし》があって、階段の上にも下にも白い石だたみを敷きつめて、上には錦の大きい帳《とばり》を垂れていた。ところどころに朱く塗った太い円い柱が立っていて、柱には鳳凰《ほうおう》や龍や虎のたぐいが金や銀や朱や碧や紫やいろいろの濃い彩色《さいしき》を施して、生きたもののようにあざやかに彫《ほ》られてあった。折りまわした長い欄干《てすり》は珠《たま》のように光っていた。千枝松はぬき足をして高い階段の下に怖るおそる立った。階段の下には彼のほかに大勢の唐人《とうじん》が控えていた。
「しっ」
人を叱るような声がどこからともなくおごそかに聞こえて、錦の帳は左右に開いてするすると巻き上げられた。正面の高いところには、錦の冠をいただいて黄色い袍《ほう》を着た男が酒に酔ったような顔をして、珠をちりばめた榻《とう》に腰をかけていた。これが唐人の王様であろうと千枝松は推量した。王のそばには紅の錦の裳《すそ》を長く曳いて、竜宮の乙姫《おとひめ》さまかと思われる美しい女が女王のような驕慢な態度でおなじく珠の榻に倚りかかっていた。千枝松は伸び上がってまたおどろいた。その美しい女はやはりあの藻をそのままであった。
「酒はなぜ遅い。肉を持って来ぬか」と王は大きい声で叱るように呶鳴った。
藻に似た女は妖艶なひとみを王の赤い顔にそそいで高く笑いこけた。笑うのも無理はない、王の前には大きい酒の甕《かめ》が幾つも並んでいて、どの甕にも緑の酒があふれ出しそうに満《なみ》なみと盛ってあった。珠や玳瑁《たいまい》で作られた大きい盤の上には、魚の鰭《ひれ》や獣の股《もも》が山のように積まれてあった。長夜の宴に酔っている王の眼には、酒の池も肉の林ももうはっきりとは見分けがつかないらしかった。家来どもも侍女らもただ黙って頭をたれていた。
そのうちに藻に似た女が何かささやくと、王は他愛なく笑ってうなずいた。家来の唐人はすぐに王の前に召し出されて何か命令された。家来はかしこまって退いたかと思うと、やがて大きい油壺を重そうに荷《にな》って来た。千枝松は今まで気がつかなかったが、このとき初めて階段の下の一方に太いあかがねの柱が立っているのを見つけ出した。大勢の家来が寄って、その柱にどろどろした油をしたたかに塗り始めると、ほかの家来どもはたくさんの柴を運んで来て、柱の下の大きい坑《あな》の底へ山のように積み込んだ。二、三人が松明《たいまつ》のようなものを持って来て、またその中へ投げ込んだ。ある者は油をそそぎ込んだ。
「寒いので焚火をするのか知らぬ」と、千枝松は思った。しかし彼の想像はすぐにはずれた。
柴はやがて燃え上がったらしい。地獄の底から紅蓮《ぐれん》の焔を噴くように、真っ赤な火のかたまりが坑いっぱいになって炎々と高くあがると、その凄まじい火の光りがあかがねの柱に映って、あたりの人びとの眉や鬢《びん》を鬼のように赤く染めた。遠くから覗いている千枝松の頬までが焦《こ》げるように熱くなってきた。火が十分燃えあがるのを見とどけて、藻に似た女は持っている唐団扇をたかく挙げると、それを合図に耳もつぶすような銅鑼《どら》の音が響いた。千枝松はまたびっくりして振り向くと、鬚《ひげ》の長い男と色の白い女とが階段の下へ牽き出されて来た。かれらも天竺の囚人のように、赤裸の両手を鉄の鎖につながれていた。
千枝松はぞっとした。銅鑼の音はまた烈しく鳴りひびいて、二人の犠牲《いけにえ》は銅の柱のそばへ押しやられた。千枝松は初めて覚った。油を塗った柱に倚りかかった二人は、忽ちにからだを滑らせて地獄の火坑にころげ墜ちるのであろう。彼はもう堪まらなくなって眼をとじようとすると、階段の下に忙がわしい靴の音がきこえた。
今ここへ駈け込んで来た人は、身の長《たけ》およそ七尺もあろうかと思われる赭《あか》ら顔の大男で、黄牛《あめうし》の皮鎧に真っ黒な鉄の兜をかぶって、手には大きい鉞《まさかり》を持っていた。彼は暴れ馬のように跳って柱のそばへ近寄ったかと思うと、大きい手をひろげて二人の犠牲を抱き止めた。それをさえぎろうとした家来の二、三人はたちまち彼のために火の坑へ蹴込まれてしまった。彼は裂けるばかりに瞋恚《いかり》のまなじりをあげて、霹靂《はたたがみ》の落ちかかるように叫んだ。
「雷震《らいしん》ここにあり。妖魔亡びよ」
鉞をとり直して階段を登ろうとすると、女は金鈴を振り立てるような凛とした声で叱った。大勢の家来どもは剣をぬいて雷震を取り囲んだ。坑の火はますます盛んに燃えあがって、広い宮殿をこがすばかりに紅く照らした。その猛火を背景にして、無数の剣のひかりは秋のすすきのように乱れた。雷震の鉞は大きい月のように、その叢《むら》すすきのあいだを見えつ隠れつしてひらめいた。
藻に似た女は王にささやいてしずかに席を起った。千枝松はそっとあとをつけてゆくと、二人は手をとって高い台《うてな》へ登って行った。二人のあとをつけて来たのは千枝松ばかりでなく、鎧兜を着けた大勢の唐人どもが弓や矛《ほこ》を持って集まって来て、台のまわりを忽ち幾重《いくえ》にも取りまいた。そのなかで大将らしいのは、白い鬢髯《びんひげ》を鶴の毛のように長く垂れた老人であった。千枝松は老人のそばへ行ってこわごわ訊いた。
「ここはなんという所でござ
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