、ひたすらに娘の生長を待っていた。藻はことし十四になった。
その年の春に、行綱は娘を連れて清水の観音詣でに行った。その時にいわゆる三年坂でつまずいたのがもとで、彼は三月の末から病いの床に横たわる身の上になった。夏が過ぎ、秋が来ても、彼はやはり枕と薬とに親しんでいるので、孝行な藻の苦労は絶えなかった。貧と病いとにさいなまれている父を救うがために、彼女はふだんから信仰する観音さまへ三七日《さんしちにち》の夜まいりを思い立って、八月の末から夜露を踏んで毎晩清水へかよった。京も荒れて、盗賊の多いこの頃の秋の夜に、乙女《おとめ》ひとりの夜道は心もとないと父も最初はしきりにとめたが、藻はどうしても肯《き》かなかった。彼女は父の病いを癒したい一心に、おそろしい夜道を遠くかよいつづけた。
しかし一七日《いちしちにち》の後には、藻に頼もしい道連れができた。それはかの千枝松で、彼は烏帽子|折《お》りの子であった。これも早くふた親にわかれた不運な孤児《みなしご》で、やはり烏帽子折りを生業《なりわい》としている叔父叔母のところへ引き取られて、ことし十五になった。叔父の大六は店あきないをしているのでない。京伏見から大津のあたりを毎日めぐり歩いて、呼び込まれた家《うち》の烏帽子を折っているのであった。したがって家にいる日は少ないので、千枝松は叔母と二人で毎日さびしく留守番をしていた。村こそ違え、同じ山科郷に住んでいるので、彼はいつか一つ違いの藻と親しくなって、ほかの子供たちには眼をくれないで、二人はいつも仲好く遊んだ。
「藻と千枝ま[#「ま」に傍点]は女夫《めおと》じゃ」
ほかの子供たちが妬《ねた》んでからかうと、千枝松はいつでも真っ赤になって怒った。
「はて、言うものには言わして置いたがよい。わたしも父さまの病いが癒ったら、お前の叔母さまのところへ烏帽子を折り習いに行きたい」と、藻は言った。
「おお、叔母御でのうてもわしが教えてやる。横さびでも風折《かざお》りでも、わしはみんな知っている。来年になったら、わしも叔父御と連れ立ってあきないに出るのじゃ」と、千枝松は誇るように言った。
千枝松は烏帽子折りの職人になるのである。藻もその烏帽子を折り習いたいという。そこにどういう意味があるのか、確かに理解していないまでも、千枝松の若い胸には微かに触れるものがあった。彼はいよいよ藻と親しくなった。その藻の父が長くわずらっているので、彼は自分の父を案じるように毎日見舞いに来た。そうして、藻が清水へ夜詣りにゆくことを一七日の後に初めて知って、彼はいつになく怨んで怒った。
「なぜわしに隠していた。幼い女ひとりが夜道《よみち》して何かのあやまちがあったらどうするぞ。わしも今夜から一緒にゆく」
彼は叔母の許しをうけて、それから藻と毎夜一緒に連れ立って行った。強そうな顔をしていても、千枝松はまだ十五の少年である。盗賊や鬼はおろか、山犬に出逢っても果たして十分に警護の役目を勤めおおせるかどうだか、よそ目には頗《すこぶ》る不安に思われたが、藻に取っては世にも頼もしい、心《こころ》丈夫な道連れであった。彼女は千枝松が毎晩誘いに来るのを楽しんで待っていた。千枝松もきっと約束の時刻をたがえずに来て、二人は聞き覚えの普門品《ふもんぼん》を誦《ず》しながら清水へかよった。
その藻をそそのかして、江口の遊女になれと勧めた陶器師の婆は、たとい善意にもしろ、悪意にもしろ、千枝松の眼から見れば確かに憎い仇であった。彼が口をきわめて罵るのも無理はなかった。戸をたたいて嚇《おど》した位では、なかなか腹が癒《い》えなかった。彼はその晩自分の家へ逃げて帰っても、まだ苛《いら》いらしてよく眠られなかった。よもやとは思うものの、どうも安心ができないので、彼はあくる朝、叔父があきないに出るのを見送って、すぐにとなり村の藻の家へたずねて来た。
来ると、彼はまず隣りの陶器師の店をのぞいた。店の小さい窯《かま》の前には人の善さそうな陶器師の翁《おきな》が萎《な》えな烏帽子をかぶって、少し猫背に身をかがめて、小さい莚の上で何か壺のようなものを一心につくねていた。日よけに半分垂れたすだれの外には、自然に生えたらしい一本の野菊がひょろひょろと高く伸びて、白い秋の蝶が疲れたようにその周《まわ》りをたよたよと飛びめぐっていた。婆は奥のうす暗いところで麻を績《う》んでいた。
「爺《じい》さま。よい天気じゃな」
千枝松はわざと声をかけると、翁は手をやすめて振り向いた。そうして、白い長い眉を皺めながらにこにこ笑った。
「おお、となり村の千枝ま[#「ま」に傍点]か。ほんによい秋日和《あきびより》じゃよ。秋も末になると、いつも雨の多いものじゃが、ことしは日和つづきで仕合わせじゃ。わしらのあきないも降ってはどうもならぬ」
「そうであろうのう」と、千枝松は翁の手に持っている壺をながめていた。婆は憎いが、この翁にむかっては彼は喧嘩を売るわけにはいかなかった。それでも彼はおどすように声をひそめて訊いた。
「この頃ここらへ天狗が出るという。ほんかな」
「なんの」と、翁はまた笑った。「ここらに住んでいる者はみんな善い人ばかりじゃ。悪い者は一人もない。天狗さまのお祟《たた》りを受けよう筈がないわ。ははははは。鬼の天狗のというても、大抵は人間のいたずらじゃ。ゆうべもわしの家の戸をたたいて、天狗じゃとおどかした奴があった」
「ほんに悪いことをする奴じゃ」と、婆も奥から声をかけた。「今度またいたずらをしおったら、すぐに追い掛けて捉《とら》まえて、あの鎌で向こう脛を薙《な》いでくるるわ」
「天狗がつかまるかな」と、千枝松はあざけるように笑った。
「はて、天狗じゃない、人間じゃというに……。和郎《わろ》もそのいたずら者を見つけたら、教えてくりゃれ」と、婆は睨むような白い眼をして言った。
千枝松はすこし薄気味悪くなって、もしや自分のいたずらということを覚《さと》られたのではないかとも思った。しかし彼は弱味を見せまいとして、またあざ笑った。
「天狗でも人間でも、こちらで悪いことさえせにゃなんの祟りもいたずらもせまいよ」
「わしらがなんの悪いことをした」と、婆は膝を立て直した。
おお、悪いことをした。となりの娘を遊女に売ろうとした――と、千枝松は負けずに言おうとしたが、さすがに躊躇した。
「悪いことせにゃ、それでよい。悪いことをすると、今夜にも天狗がつかみに来ようぞ」
こう言い捨てて、彼はここの店さきをつい[#「つい」に傍点]と出ると、出逢いがしらに赤とんぼうが彼の鼻の先きをかすめて通った。彼は忌《いま》いましそうに顔を皺めながら、隣りの家の門《かど》に立つと、柿の梢がまず眼にはいった。「しッしッ」と、彼は足もとにある土くれを拾って鴉を逐った。その声を聞きつけて、藻は縁さきへ出た。
「千枝ま[#「ま」に傍点]か」
二人はなつかしそうに向き合った。さっきの白い蝶が千枝松の裾にからんで来たらしく、二人の間にひらひらと舞った。
三
行綱の病気を見舞ったあとで、千枝松と藻とは手をひかれて近所の小川のふちに立った。今夜は十三夜で、月に供える薄《すすき》を刈りに出たのであった。
幅は三|間《げん》に足らない狭い川であったが、音もなしに冷《ひや》びやと流れてゆく水の上には、水と同じような空の色が碧《あお》く映って、秋の雲の白い影も時どきにゆらめいて流れた。低い堤は去年の出水《でみず》に崩れてしまって、その後に手入れをすることもなかったので、水と陸《おか》との間にははっきりした境もなくなったが、そこには秋になると薄や蘆が高く伸びるので、水と人とはこの草むらを挟んで別々にかよっていた。それでも蟹を拾う子供や、小鮒《こぶな》をすくう人たちが、水と陸とのあいだの通路を作るために、薄や蘆を押し倒して、ところどころに狭い路を踏み固めてあるので、二人もその路をさぐって水のきわまで行き着いた。そこには根こぎになって倒れている柳の大木のあることを二人は知っていた。
「水は美しゅう澄んでいるな」
二人はその柳の幹に腰をかけて、爪さき近く流れている秋の水をじっと眺めた。半分は水にひたされている大きい石のおもてが秋の日影にきらきらと光って、石の裾には蓼《たで》の花が紅く濡れて流れかかっていた。川のむこうには黍《きび》の畑が広くつづいて、その畑と岸とのあいだの広い往来を大津牛が柴車をひいてのろのろと通った。時どきに鵙《もず》も啼いて通った。
「わしは歌を詠《よ》めぬのがくやしい」
千枝松が突然に言い出したので、藻は美しい眼を丸くした。
「歌が詠めたらどうするのじゃ」
「このような晴れやかな景色を見ても、わしにはなんとも歌うことが出来ぬ。藻、お前は歌を詠むのじゃな」
「父《とと》さまに習うたけれど、わたしも不器用な生まれで、ようは詠まれぬ。はて、詠まれいでも大事ない。歌など詠んで面白そうに暮らすのは、上臈《じょうろう》や公家《くげ》殿上人《てんじょうびと》のすることじゃ」
「それもそうじゃな」と、千枝松は笑った。「実はゆうべ家へ帰ったら、叔父御が京の町からこのようなことを聞いて来たというて話しゃれた。先日関白殿のお歌の会に『独り寝の別れ』というむずかしい題が出た。独り寝に別れのあろう筈がない。こりゃ昔から例《ためし》のない難題じゃというて、さすがの殿上人も頭を悩まされたそうなが、どう思案しても工夫が付かないで、一人も満足な歌を詠み出したものがなかった。この上は広い都に住むほどの者、商人《あきうど》でも職人でも百姓でも身分はかまわぬ。よき歌を作って奉《たてまつ》るものには莫大の御褒美を下さるると、御歌所《おうたどころ》の大納言のもとから御沙汰があったそうな。そこで叔父御が言わしゃるには、おれも長年烏帽子こそ折れ、腰折れすらも得《え》詠《よ》まれぬは何《なん》ぼう無念じゃ。こういう折りによい歌作って差し上げたら、一生安楽に過ごされようものをと、笑いながらも悔んでいられた」
「ほう、そんなことは初めて聞いた」と、藻も眉をよせた。「なるほど、独り寝の別れ、こりゃおかしい。どんな名人上手でも、世にためしのないことは詠まれまい。ほんに晦日《みそか》の月というのと同じことじゃ」
「水の底で火を焚くというのと同じことじゃ」
「木にのぼって魚を捕るというのと同じことじゃ」
二人は顔をみあわせて、子供らしく一度に笑い出した。その笑い声を打ち消すように、どこやらの寺の鐘が秋の空に高くひびいてうなり出した。
「おお、もう午《ひる》じゃ」
藻がまずおどろいて起《た》った。千枝松もつづいて起った。二人は慌ててそこらの薄を折り取って、ひとたばずつ手に持って帰った。千枝松は藻と門《かど》で別れる時にまた訊いた。
「けさは隣りの婆が見えなんだか」
藻は誰も来ないと言った。それでもまだなんだか不安なので、千枝松は帰るときに陶器師の店を又のぞくと、翁はさっきと同じところに屈《かが》んで、同じような姿勢で一心に壺をつくねていた。婆の姿は見えなかった。
風のない秋の日は静かに暮れて、薄い夕霧が山科《やましな》の村々に低く迷ったかと思うと、それが又だんだんに明るく晴れて、千枝松がゆうべ褒めたような冴えた月が、今夜もつめたい白い影を高く浮かべた。藻が門《かど》の柿の葉は霜が降ったように白く光っていた。
「藻よ。今夜はすこし遅うなった。堪忍しや」
千枝松は息を切って駈けて来て、垣の外から声をかけたが内にはなんの返事もなかった。彼は急いで二、三度呼びつづけると、ようように行綱の返事がきこえた。藻は小半※[#「※」は「日へんに向」、読みは「とき」、22−12]《こはんとき》も前に家を出たというのであった。
「ほう、おくれた」
千枝松はすぐにまた駈け出した。その頃の山科から清水へかよう路には田畑が多いので、明るい月の下に五|町《ちょう》八町はひと目に見渡されたが、そこには藻はおろか、野良犬一匹のさまよう影も見えなかった。千枝松はいよいよ急《せ》いてまっしぐらに駈けた。駈けて、駈けて、と
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