のうちに千枝松が自分ぎめをしていたに過ぎないのである。この場合、彼は藻にむかって正面からその違約を責める権利はなかった。しかし彼は悲しかった。口惜しかった。腹立たしかった。どう考えても藻を宮仕えに出してやりたくなかった。
「その身の出世というても、出世するばかりが人間の果報でもあるまいぞ。奉公などやめにしやれ」と彼は率直に言った。
 藻はなんにも言わなかった。
「いやか。どうでも関白殿の屋形へまいるのか」と、千枝松は畳みかけて言った。「わしの叔母御のところへ来て烏帽子を折り習いたいというたは嘘か。お前はわしに偽《いつわ》ったか」
 彼はこの問題をとらえて来て、女の違約を責める材料にしようと試みたが、それは手もなく跳ね返された。
「そりゃ御奉公しようとも思わぬ昔のことじゃ」
「その昔を忘れては済むまい」
 暗いなかでは女の顔色を窺うことはできないので、千枝松はじれて藻の手をつかんだ。そうして隣りの陶器師の門までひいてゆくと、炉の火はまばらな簾を薄紅く洩れて、女の顔が再び白く浮き出した。千枝松はその顔をのぞき込んで言った。
「これほど言うてもお前はきかぬか。わしの頼みを聞いてくれぬか。のう、藻。わしは来年は男になって、烏帽子折りの商売《あきない》をするのじゃ。わしが腕かぎり働いたら、お前たち親子の暮らしには事欠かすまい。宮仕えなどして何になる。結局は地下《じげ》で暮らすのが安楽じゃ。第一おまえが奉公に出たら、病気の父御《ててご》はなんとなる。誰が介抱すると思うぞ。わが身の出世ばかりを願うて、親を忘れては不孝じゃぞ」
 第一の抗議で失敗した彼は、さらに孝行の二字を控え綱にして、女の心をひき戻そうとあせったが、それもすぐに切り放された。
「わたしが奉公するとなれば、父《とと》さまの御勘気も免《ゆ》るる。殿に願うて良い医師《くすし》を頼むことも出来る。なんのそれが不孝であろうぞ」
 千枝松はあとの句を継ぐことが出来なくなった。
 藻は勝ち誇ったように笑った。
「おまえとも久しい馴染みであったが、もうこれがお別れになろうも知れぬ。今もお前が言うた通り、来年は男になって、叔父さまや叔母さまに孝行しなされ」
 彼女は幽霊のように元の闇に消えてしまった。

    三

 千枝松はその晩眠らずに考えた。
「陶器師の婆の言うたに嘘はない。藻はむかしの藻でない。まるで生まれ変わった人のような」
 あしたはもう一度たずねて行って、今度はなんといって口説き伏せようかと、彼は疲れ切った神経をいよいよ尖らせて、秋の夜長をもだえ明かした。あかつきの鶏の啼く頃から彼は又もや熱がたかくなった。
「それお見やれ。しかと癒り切らぬ間《ま》にうかうかと夜歩きをするからじゃ」と、彼は叔母から又叱られた。叔父からも命知らずめと叱られた。
 そうして、四日ばかりは外出を厳しく戒められた。
 いかにあせっても、千枝松は動くことが出来なかった。四日目の朝には気分が少し快くなったので、叔母が買物に出た留守を狙って、彼は竹の杖にすがって家を這い出した。三、四日のうちに今年の秋も急に老《ふ》けて、畑の蜀黍《もろこし》もみな刈り取られてしまったので、そこらの野づらが果てしもなく遠く見渡された。千枝松は世界が俄に広くなったように思った。そうして、晴ればれしいというよりも、なんだか頼りないような悲しい思いに涙ぐまれた。彼は重い草履を引きずってとぼとぼと歩いて来た。
 藻の門《かど》の柿の梢がようように眼にはいったと思う頃に、彼は陶器師の翁に逢った。翁は野菊の枝を手に持って、寂しそうに俯《うつ》向き勝ちに歩いていた。ふたりは田圃路のまん中で向かい合った。
「じいさま。どこへゆく」
 挨拶なしで行き違うわけにもいかないので、千枝松の方からまず声をかけると、翁はゆがんだ烏帽子を押し直しながら、いつもの通りに笑っていたが、その頤《あご》には少し痩せがみえた。
「これじゃ。婆の墓参りじゃ」と、彼は手に持っている紅い花を見せた。
「婆どのが死んだか」と、千枝松もさすがに驚かされた。「いつ死なしゃれた。急病か」
「おお、丁度おまえが来て、いさかいをして帰った晩じゃ」
 その夜ふけにそっと戸を叩いた者がある。婆はいつもの寝坊に似合わず、すぐに起きて戸をあけた。外には誰が立っていたのか知らないが、彼女はそのままするり[#「するり」に傍点]と表へ出て行って、夜の明けるまで帰って来なかった。翁も不思議に思って近所に聞き合わせたが、なにぶんにも夜更けのことで誰も知っている者はなかった。だんだんあさり尽くした揚げ句に、翁はふと過日《かじつ》の杉の森を思いついて、念のために森の奥へはいってみると、婆は藻と同じようにかの古塚の下に倒れていた。しかし彼女は何者にか喉を啖《く》い破られていて、とてもその魂を呼びかえすすべは
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