ります。お前はなんというお人でござります」
 ここは唐土《もろこし》で、自分は周《しゅう》の武王《ぶおう》の軍師で太公望《たいこうぼう》という者であると彼は名乗った。そうして、更にこういうことを説明して聞かせた。
「今この国の政治《まつりごと》を執っている殷《いん》の紂王《ちゅうおう》は妲己《だっき》という妖女にたぶらかされて、夜も昼も淫楽にふける。まだそればかりか、妲己のすすめに従って、炮烙《ほうらく》の刑という世におそろしい刑罰を作り出した。お前も先刻《さっき》からここにいたならば、おそらくその刑罰を眼《ま》のあたりに見たであろう。いや、まだそのほかにも、妲己の残虐は言い尽くせぬほどある。生きた男を捕らえて釜うでにする。姙《はら》み女の腹を割《さ》く。鬼女とも悪魔とも譬えようもない極悪《ごくあく》非道の罪業《ざいごう》をかさねて、それを日々の快楽《けらく》としている。このままに捨て置いたら、万民は野に悲しんで世は暗黒の底に沈むばかりじゃ。わが武王これを見るに堪えかねて、四百余州《しひゃくよしゅう》の諸侯伯をあつめ、紂王をほろぼし、妲己を屠《ほふ》って世をむかしの明るみにかえし、あわせて万民の悩みを救おうとせらるるのじゃ。紂王はいかに悪虐の暴君というても、しょせんは唯の人間じゃ。これを亡ぼすのは、さのみむずかしいとは思わぬが、ただ恐るべきはかの妲己という妖女で、彼女《かれ》の本性は千万年の劫《こう》を経《へ》た金毛《きんもう》白面《はくめん》の狐じゃ。もし誤ってこの妖魔を走らしたら、かさねて世界の禍いをなすは知れてある」
 そのことばのいまだ終わらぬうちに、高い台《うてな》の上から黄色い煙りがうず巻いて噴き出した。老人は煙りを仰いで舌打ちをした。
「さては火をかけて自滅と見ゆるぞ。暴君の滅亡は自然の命数《めいすう》じゃが、油断してかの妖魔を取り逃がすな。雷震はおらぬか。煙りのなかへ駈け入って早く妖魔を誅戮《ちゅうりく》せよ」
 かの大まさかりを掻い込んで、雷震はどこからか現われた。彼はどよめいている唐人どもを掻き退けて、兜の上に降りかかる火の粉《こ》の雨をくぐりながら、台の上へまっしぐらに駈けあがって行った。老人は気づかわしそうに台をみあげた。千枝松も手に汗を握って同じく高い空を仰いでいると、台の上からは幾すじの黄色い煙りが大きい龍のようにのたうって流れ出した。その煙りのなかから、藻に似た女の顔が白くかがやいて見えた。
「射よ」と老人は鞭《むち》をあげて指図した。
 無数の征矢《そや》は煙りを目がけて飛んだ。女は下界《げかい》をみおろして冷笑《あざわら》うように、高く高く宙を舞って行った。千枝松はおそろしかった。それと同時に、言い知れない悲しさが胸に迫ってきて、彼は思わず声をあげて泣いた。
 不思議な夢はこれで醒めた。

 あくる朝になっても千枝松は寝床を離れることが出来なかった。ゆうべ不思議な夢におそわれたせいか、彼は悪寒《さむけ》がして頭が痛んだ。叔父や叔母は夜露にあたって冷えたのであろうと言った。叔母は薬を煎《せん》じてくれた。千枝松はその薬湯《やくとう》をすすったばかりで、粥《かゆ》も喉には通らなかった。
「藻はどうしたか」
 彼はしきりにそれを案じていながらも、意地の悪い病いにおさえ付けられて、いくらもがいても起きることが出来なかった。叔母も起きてはならないと戒《いまし》めた。それから五日ばかりの間、彼は病いの床に封じ込められて、藻の身の上にも、世間の上にも、どんな事件が起こっているか、なんにも知らなかった。

    三

 碧《あお》い空は静かに高く澄んでいるが、その高い空から急に冬らしい尖った風が吹きおろして来て、柳の影はきのうにくらべると俄に痩せたように見えた。大納言|師道《もろみち》卿の屋形《やかた》の築地《ついじ》の外にも、その柳の葉が白く散っていた。
 ひとりの美しい乙女《おとめ》が屋形の四足門《よつあしもん》の前に立って案内を乞うた。
「山科郷にわびしゅう暮らす藻《みくず》という賤《しず》の女《め》でござります。殿にお目見得《めみえ》を願いとうて参じました」
 取次ぎの青侍《あおざむらい》は卑しむような眼をして、この貧しげな乙女の姿をじろりと睨《ね》めた。しかもその睨めた眼はだんだんにとろけて、彼は息をのんで乙女の美しい顔を穴のあく程に見つめていた。藻はかさねて言った。
「承りますれば、関白さまの御沙汰として、独り寝の別れというお歌を召さるるとやら。不束《ふつつか》ながらわたくしも腰折れ一首詠み出《い》でましたれば、御覧に入《い》りょうと存じまして……」
 彼女は恥ずかしそうに少しく顔を染めた。青侍は我に返ったようにうなずいた。
「おお、そうじゃ。関白殿下の御沙汰によって、当屋形の大納言殿には独り寝
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