々に身を入れず、重体の亭主を奥の三畳へなげ込んだままで、誰も看病する者もないという有様であった。
 余事はともあれ、重病の主人をほとんど投げやりにして置くのは何事であるかと、吉次郎もおどろいて養母を詰《なじ》ると、かれの返事はこうであった。
「おまえは遠方にいて何にも知らないから、そんなことを言うのだが、まあ、病人のそばに二、三日付いていて御覧、なにもかもみんな判るから。」
 なにしろ病人をこんなところに置いてはいけないと、吉次郎は他の奉公人に指図して、養父の寝床を下座敷に移して、その日から自分が付切りで看護することになったが、病人は口をきくことが出来なかった。薬も粥も喉へは通らないで、かれは水を飲むばかりであった。彼はうなぎのように頬をふくらせて息をついているばかりか、時々に寝床の上で泳ぐような形をみせた。医者もその病症はわからないと言った。しかし吉次郎にはひしひしと思い当ることがあるので、その枕もとへ寄付かない養母をきびしく責める気にもなれなくなった。彼はあまりの浅ましさに涙を流した。
 それからふた月ばかりで病人はとうとう死んだ。その葬式が済んだ後に、吉次郎はあらためて養家を立去ることになった。その時に彼は養母に注意した。
「おまえさんも再びこの商売をなさるな。」
「誰がこんなことするものかね。」と、養母は身ぶるいするように言った。
 吉次郎が左官になったのはその後のことである。

 ここまで話して来て、鈴木有年は一息ついた。三人の前に据えてある火鉢の炭も大方は白い灰になっていた。
「なんでもその鰻というのは馬鹿に大きいものであったそうです。」と、有年はさらに付け加えた。
「叔父の手を三まきも巻いて、まだその尾のさきで脾腹を打ったというのですから、その大きさも長さも思いやられます。打たれた跡は打身《うちみ》のようになって、今でも暑さ寒さには痛むということです。」
 それから又いろいろの話が出て、馬琴と有年とがそこを出たのは、その夜ももう四つ(午後十時)に近い頃であった。風はいつか吹きやんで、寒月が高く冴えていた。下町の家々の屋根は霜を置いたように白かった。途中で有年にわかれて、馬琴はひとりで歩いて帰った。
「この話を斎藤彦麿に聞かしてやりたいな。」と、馬琴は思った。「彦麿はなんと言うだろう。」
 斎藤彦麿はその当時、江戸で有名の国学者である。彼は鰻が大すきで、毎日ほとんどかかさずに食っていた。それはかれの著作、「神代余波」のうちにこういう一節があるのを見てもわかる。
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――かば焼もむかしは鰻の口より尾の方へ竹串を通して丸焼きにしたること、今の鯰《ぼら》このしろなどの魚田楽の如くにしたるよし聞き及べり。大江戸にては早くより天下無双の美味となりしは、水土よろしきゆえに最上のうなぎ出来て、三大都会にすぐれたる調理人群居すれば、一天四海に比類あるべからず、われ六、七歳のころより好み食いて、八十歳までも無病なるはこの霊薬の効験にして、草根木皮のおよぶ所にあらず。
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[#地から2字上げ]大正十三年六月作「週刊朝日」



底本:「鎧櫃の血」光文社文庫、光文社
   1988(昭和63)年5月20日初版1刷発行
   1988(昭和63)年5月30日2刷
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年6月2日作成
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