ない。どうぞおとなしく素直に裂かれてくれ。その代りにおれは今日かぎりで、きっとこの商売をやめる。判ったか。」
 それが鰻に通じたとみえて、かれはからみ付いた手を素直に巻きほぐして、俎板の上で安々と裂かれた。吉次郎はまず安心して、型のごとくに焼いて出すと、連れの客は死人を焼いたような匂いがするといって箸を把らなかった。山口屋の主人は半串ほど食うと、俄に胸が悪くなって嘔《は》き出してしまった。
 その夜なかの事である。うなぎの生簀のあたりで凄まじい物音がするので、家内の者はみな眼をさました。吉次郎はまず手燭をとぼして蚊帳のなかから飛び出してゆくと、そこらには別に変った様子も見えなかった。夜なかは生簀の蓋の上に重い石をのせて置くのであるが、その石も元のままになっているので、生簀に別条はないことと思いながら、念のためにその蓋をあけて見ると、たくさんのうなぎは蛇のように頭をあげて、一度にかれを睨んだ。
「これもおれの気のせいだ。」
 こう思いながらよく視ると、ひとつ残っていた、かの大うなぎは不思議に姿を隠してしまった。一度ならず、二度三度の不思議をみせられて、吉次郎はいよいよ怖ろしくなった。かれは夏のみじか夜の明けるを待ちかねて、養家のうなぎ屋を無断で出奔した。
 上総《かずさ》に身寄りの者があるので、吉次郎はまずそこへたどり着いて、当分は忍んでいる事にした。しかし一旦その家の養子となった以上、いつまでも無断で姿を隠しているのはよくない。万一養家の親たちから駈落ちの届けでも出されると、おまえの身の為になるまい、と周囲の者からも注意されたので、吉次郎はふた月ほど経ってから江戸の養家へたよりをして、自分は当分帰らないということを断ってやると、養父からは是非一度帰って来い、何かの相談はその上のことにすると言って来たが、もとより帰る気のない吉次郎はそれに対して返事もしなかった。
 こうして一年ほど過ぎた後に、江戸から突然に飛脚が来て、養父はこのごろ重病で頼みすくなくなったから、どうしても一度戻って来いというのであった。あるいは自分をおびき寄せる手だてではないかと一旦は疑ったが、まだ表向きは離縁になっている身でもないので、仮にも親の大病というのを聞き流していることも出来まいと思って、吉次郎はともかくも浅草へ帰ってみると、養父の重病は事実であった。しかも養母は密夫をひき入れて、商売には碌
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