どうして蜿《のたく》り込んだか知らねえが、大層な目方でせうね。」
「おれは永年この商売をしてゐるが、こんなのを見たことがねえ。どこかの沼の主かも知れねえ。」
 ふたりは暫くその鰻をめづらしさうに眺めてゐた。実際、それはどこかの沼か池の主とでも云ひさうな大鰻であつた。
「なにしろ、囲つて置きます。」と、吉次郎は云つた。「近江屋か山口屋の旦那が来たときに持ち出せば、屹と喜ばれますぜ。」
「さうだ。あの旦那方のみえるまで囲つておけ。」
 近江屋も山口屋も近所の町人で、いづれも常得意のうなぎ好きであつた。殊にどちらも鰻のあらいのを好んで、大串ならば価を論ぜずに貪り食ふといふ人達であるから、この人達のまへに持ち出せば、相手をよろこばせ、併せてこつちも高い金が取れる。商売として非常に好都合であるので、沼の主でもなんでも構はない、大切に飼つておくに限るといふ商売気がこの親子の胸を支配して、二匹のうなぎは特別の保護を加へて養はれてゐた。
 それから、二三日の後に、山口屋の主人がひとりの友だちを連れて来た。かれの口癖で、門《かど》をくゞると直ぐに訊いた。
「どうだい。筋のいゝのがあるかね。」
「めつぽう荒いのがございます。」と、亭主は日本橋で彼の大うなぎを発見したことを報告した。
「それはありがたい。すぐに焼いて貰はう。」
 ふたりの客は上機嫌で二階へ通つた。待ち設けてゐたことであるから、亭主は生簀から先づ一匹の大うなぎをつかみ出して、すぐにそれを裂かうとすると、多年仕馴れた業であるのに、何うしたあやまちか彼は鰻錐で左の手をしたゝかに突き貫いた。
「これはいけない。おまへ代つて裂いてくれ。」
 かれは血の滴る手をかゝへて引込んだので、吉次郎は入れ代つて俎板にむかつて、いつもの通りに裂かうとすると、その鰻は蛇のやうにかれの手へきり[#「きり」に傍点]/\とからみ付いて、脈の通はなくなるほどに強く締めたので、左の片手はしびれるばかりに痛んで来た。吉次郎もおどろいて少しくその手をひかうとすると、うなぎは更にその尾をそらして、かれの脾腹を強く打つたので、これも息が止まるかと思ふほどの痛みを感じた。かさね/″\の難儀に吉次郎も途方にくれたが、人を呼ぶのも流石に恥かしいと思つたので、一生懸命に大うなぎをつかみながら、小声でかれに云ひきかせた。
「いくらお前がじたばた[#「じたばた」に傍点]したところで、所詮助かる訳のものではない。どうぞおとなしく素直に裂かれてくれ。その代りにおれは今日かぎりで屹とこの商売をやめる。判つたか。」
 それが鰻に通じたとみえて、かれはからみ付いた手を素直に巻きほぐして、俎板の上で安々と裂かれた。吉次郎は先づ安心して、型のごとくに焼いて出すと、連れの客は死人を焼いたやうな匂ひがすると云つて箸を把らなかつた。山口屋の主人は半串ほど食ふと、俄かに胸が悪くなつて嘔き出してしまつた。
 その夜なかの事である。うなぎの生簀のあたりで凄まじい物音がするので、家内の者はみな眼をさました。吉次郎は先づ手燭をとぼして蚊帳のなかから飛び出してゆくと、そこらには別に変つた様子も見えなかつた。夜中は生簀の蓋の上に重い石をのせて置くのであるが、その石も元のまゝになつてゐるので、生簀に別条はないことと思ひながら、念のためにその蓋をあけて見ると、沢山のうなぎは蛇のやうに頭をあげて、一度にかれを睨んだ。
「これもおれの気のせゐだ。」
 かう思ひながらよく視ると、ひとつ残つてゐた彼の大うなぎは不思議に姿を隠してしまつた。一度ならず、二度三度の不思議をみせられて、吉次郎はいよ/\怖ろしくなつた。かれは夏のみじか夜の明けるを待ちかねて、養家のうなぎ屋を無断で出奔した。
 上総に身寄りの者があるので、吉次郎は先づそこへ辿り着いて、当分は忍んでゐる事にした。併し一旦その家の養子となつた以上、いつまでも無断で姿を隠してゐるのはよくない。万一養家の親たちから駈落の届けでも出されると、おまへの身の為になるまいと周囲の者からも注意されたので、吉次郎は二月ほど経つてから江戸の養家へたよりをして、自分は当分帰らないと云ふことを断つてやると、養父からは是非一度帰つて来い、何かの相談はその上のことにすると云つて来たが、もとより帰る気のない吉次郎はそれに対して返事もしなかつた。
 かうして一年ほど過ぎた後に、江戸から突然に飛脚が来て、養父はこのごろ重病で頼みすくなくなつたから、どうしても一度戻つて来いと云ふのであつた。あるひは自分をおびき寄せる手だてではないかと一旦は疑つたが、まだ表向きは離縁になつてゐる身でもないので、仮にも親の大病といふのを聞き流してゐることも出来まいと思つて、吉次郎は兎も角も浅草へ帰つてみると、養父の重病は事実であつた。しかも養母は密夫をひき入れて、商売には碌々に身を
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