になるか知れない。両側の町家から大勢が出て来て、石でも棒切れでも何でも構わない、手あたり次第に叩きつける。札差《ふださし》の店からも大勢が出て来て、小桶や皿小鉢まで叩きつける。
さすがの牛も少しく疲れたのと、方々から激しく攻め立てられたのとで、もう真直には行かれなくなったらしく、駒形堂《こまんどう》のあたりから右へ切れて、河岸から大川へ飛び込んだ。汐が引いていたと見えて、岸に寄った方は浅い洲《す》になっている。牛はそこへ飛び降りて一息ついていると、追って来た連中は上からいろいろの物を投げつける。牛はまた大川へはいって、川下の方へ泳いで行く。大勢は河岸づたいに追って行く。おどろいたのは柳橋あたりの茶屋や船宿だ。この牛が桟橋へあがって、自分たちの家へ飛び込まれては大変だから、料理番や下足番や船頭たちが桟橋へ出て、こっちへ寄せつけまいといろいろの物を投げつける。新年早々から人間と牛との闘いだ。」
「場所が場所だけに、騒ぎはいよいよ大きくなったでしょうね。」
「いや、もう、大騒ぎさ。ここに哀れをとどめたのは柳橋の小雛《こびな》という芸者だ。なんでも明けて廿一とかいう話だったが、この芸者は京橋の福井という紙屋の旦那と亀戸の初卯詣《はつうもうで》に出かける筈で、土地の松屋という船宿から船に乗って、今や桟橋を離れたところへこの騒動だ。船頭はいっそ戻そうかと躊躇していると、旦那はあとへ戻すのも縁喜が悪い、早く出してしまえという。そこで、思い切って漕ぎ出して、やがて大川のまん中まで出ると、方々の家から逐われた牛は、とても柳橋寄りの河岸へは着けないと諦めたものか、今度は反対に本所寄りの河岸にむかって泳ぎ出した。それを見ておどろいたのは小雛の船だ。
取分けて、小雛は蒼くなっておどろいた。広い川だから大丈夫だと、旦那がなだめてもなかなか肯《き》かない。もちろん牛はこの船を狙って来るわけではあるまいが、さっきからの闘いで余程疲れているらしく、ややもすれば汐に押流されて、こちらの船に近寄って来るようにも見えるので、旦那もなんだか不安になって、早くやれと船頭に催促する。船頭も一生懸命に漕いでいると、牛はもう弱ったと見えて、その姿はやがて水に沈んでしまったので、まあよかったと小雛はほっとする間もなく、一旦沈んだ牛はどう流されて来たのか、水から再び頭を出した。それがちょうど小雛の船の艫にあたる所だったので、旦那も船頭もぎょっとした。小雛はきゃっ[#「きゃっ」に傍点]といって飛び上がる途端に、船は一方にかたむいて、よろける足を踏み止めることが出来ず、旦那があわてて押えようとする間に、小雛は川へころげ落ちた……。」
「やれ、やれ、飛んだ事になりましたね。」
下
老人は話しつづける。
「小雛も柳橋の芸者だから、家根船に乗るくらいの心得はあったのだろうが、はずみというものは仕方のないもので、どう転んだのか、船から川へざんぶりという始末。これも一旦は沈んだが、また浮き上がると、その鼻のさきへ牛の頭……。こうなれば藁でもつかむ場合だから、牛でも馬でも構わない。小雛は夢中で牛の角にしがみついた。もう疲れ切っているところへ、人間ひとりに取付かれては、牛もずいぶん弱ったろうと思われるが、それでもどうにかこうにか向う河岸まで泳ぎ着いて、百本|杭《ぐい》の浅い所でぐたりと坐ってしまった。小雛は牛の角を掴んだままで半死半生だ。そこへ旦那の船が漕ぎ着けて、すぐに小雛を引揚げて介抱する。櫛や笄《こうがい》はみんな落してしまい、春着はめちゃめちゃで、帯までが解けて流れてしまったが、幸いに命だけは無事に助かったので、大難が小難と皆んなが喜んだ。命に別条が無かったとはいいながら、あんまり小難でもなかったのさ。」
「その牛はどうしました。」
「牛も半死半生、もう暴れる元気もなく、おとなしく引摺られて行った。なにしろ大伝馬町の川口屋も災難、自分の店の初荷からこんな事件を仕出来《しでか》して、春早々から世間をさわがしたので、それがために随分の金を使ったという噂だ。さもないと、どんなお咎めを受けるかも知れないからな。自分の軒に立てかけてある材木が倒れて人を殺しても、下手人《げしゅにん》にとられる時代だ。これだけの騒動を起した以上、牛の罪ばかりでは済まされない。殊にこっちが大家《たいけ》では猶更のことだ。」
「そうですか。成程これで、牛と新年と芸者と……。三題話は揃いました。いや、有難うございました。」
「まあ、待ちなさい。それでおしまいじゃあない。」
「まだあるんですか。」
「それだけじゃ昔の三面記事だ。まだちっと話がある。」と、老人はまじめに言い出した。「年寄の話はとかくに因縁話になるが、その後談を聴いてもらいたい、今の一件は天保三年正月の出来事で、それはまあそれで済んでしまった
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