って美しい娘だ。俺をひどい目に逢わすようなこともあるまい。平気で唄でも唄っていろ。いや、そうでない。人は見かけに寄らぬものだ。まあ、一旦は隠れてた方が無事かも知れない。
(蛙は池にとび込みて、蓮の葉のかげにかくれる。漆間《うるま》の翁の娘、衣《きぬ》を洗わんとていず。)
娘 きょうもどうやら陰《くも》って来た。降らないうちにこの着物を洗って置こうか。(池をのぞく。)おお、池の水も澄んでいる。
(娘は池のほとりに立寄りて衣《きぬ》を洗う。蛙の声きこゆ。)
娘 おお、蛙が面白そうに唄っている。わたしも負けない気になって唄おうか。いや、いや、どこにどんな人がいまいものでも無い。人に聞かれたら恥かしい。まあ、まあ、黙って洗いましょう。
(蛙はしきりに鳴く。娘は衣《きぬ》を洗いおわる。)
娘 まあ、これでよし。そこの枝にかけて乾《ほ》して置きましょう。
(娘は柳の樹に衣《きぬ》をかけて去る。蓮の葉をかき分けて、蛙は再びいず。)
蛙 あの娘も遠慮せずに何か唄えばいいのに……。おれ達のは唄うと云っても、唯むやみに呶鳴るのだが、ああいう美しい娘の喉《のど》からは、さだめて鈴のような可愛らしい声が出るだろう。どうかして一遍聞きたいものだ。時に蟹の叔父さんはどうしたろうな。相変らず口から泡をふいて高いびきで寝ているのだろうな。(柳の蔭をのぞく。)なるほど、強いものは違ったものだ。こんなところでいい心持そうに寝ているな。一体、きょうは風も吹かず、日も照らず、なんだか薄ら眠いような日和だ。おれもさっきから唄いくたびれたから、ここらで一と寝入りやらかすかな。これを頭にかぶっていれば、誰もちょいと気がつくまいよ。
(蛙は蓮の葉をかぶりて寝る。蛇いず。頭には蛇をいただきて、身には鱗の模様ある衣《きぬ》を被たり。)
蛇 このごろは蛙もなかなか利口になって、遠くからおれの姿を見ると、すぐに水へ飛び込んでしまうから、容易にこっちの口へ入るようなことがない。なんでも油断しているところを不意に飛び付いて、一と息に呑んでしまわなければいけないのだ。(云いつつかの蓮の葉に眼をつける。)や、あの蓮の葉がおかしいぞ。どれ、どれ。
(蛇は進んで蓮の葉のそばへ行き、足にて軽くうごかせば、蛙は葉のあいだより顔を出し、蛇を見るよりはっと縮まる。)
蛇 案の定《じょう》、こんなところに隠れていた。さあ、もう逃がしはしないぞ。おとなしくしていろ。
(蛙は葉をかぶりしまま逃げんとす。)
蛇 ええ、逃げても駄目だぞ。おれにみこまれたらもう一と足でも動けるものか、はははははは。
(蛙は小さくなりてうずくまる。蛇はしずかにねらい寄る。蛙は這いながら逃げまわる。以前の娘又もや衣《きぬ》をかかえていず。)
娘 どうしても明日《あした》は雨らしい。降らないうちにもう一枚洗って置こう。(云いつつ歩み来たりしが、このていを見るより走り寄る。)まあ、待ってください。可哀そうにこんな小さな蛙をどうするのです。
蛇 どうするといって、強いものに出逢った弱い者の運命は大抵きまっているのだ。
娘 でも、あんまり可哀そうで……。まあ、御らんなさい。あんなに小さくなってふるえていますよ。
蛇 今にふるえることも出来なくなるのだろう。
娘 後生《ごしょう》ですからその蛙を堪忍してやってくださいな。今わたしがあの着物を洗っていたときに、面白そうに唄っていたのはきっとあの蛙でしたよ。
蛇 そうかも知れない。誰でも運命の手に掴まれるまでは、なんにも知らずにいるものだ。
娘 なんにも知らずにいる者を殺すのはあんまり可哀そうでしょう。無慈悲でしょう。
蛇 可哀そうでも仕方がない。今もいう通り、弱いものは強い者に呑まれるのだ。おれが決めたのではない、神様がそう決めたのだ。
娘 でも、あんまりむごいことを……。
(蛙は救いを求むるがごとくに、娘の袖のかげに隠れる。)
娘 後生だからこの蛙を助けてやって下さいな。わたしが頼みますから……。
蛇 おまえが頼むか。
娘 この通り、拝みますから。
蛇 よし、ゆるしてやろう。
娘 ほんとうですか。まあ、嬉しい。(蛙にむかいて。)さあ、お前、早くお逃げよ。これにこりて、もううっかりと陸《おか》へ上がるんじゃないよ。
(蛙は喜びて早々に池へ逃げ去る。)
娘 御覧なさい。あの通り喜んで逃げて行きましたよ。ああ、わたしはほんとうによい功徳《くどく》をしました。
蛇 お前はほんとうに善いことをした。
娘 こんな嬉しいことはありません。
蛇 それでおれはお前のたのみをきいた。その代りにお前もおれの頼みをきくだろうな。
娘 お前の頼みというのは……。
蛇 おまえの婿になりたい。
娘 え。
蛇 おまえのような美しい女の婿になりたいのだ。
娘 でも、親達が承知しないでは……。
蛇 親達などはどうでもよい。おれは
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