《くら》うつもりだろうか。ここらの海亀は蝦や蟹を啖うが、人間を啖ったという話をきかない。しかしこんなに多数の海亀に襲われると、僕たちも危険を感ぜずにはいられなくなった。僕もしまいには闘い疲れてしまった。美智子さんはもう死んだようになっている。かれらはほとんど無数というほどに増加して、舟の周囲に一面の甲羅をならべたのが月の光りにかがやいて見える……。君がこういう奇異に遭遇したらどうするか。僕は疲労と恐怖で身動きも出来なくなった。」
成程これは困ったに相違ないと、僕も同情した。同情を通り越して、僕もなんだが体の血が冷たくなったように感じられて来た。おそらく顔の色も幾分か変ったかも知れない。
「その場合、君にしても櫂を取って防ぐくらいの知恵しか出ないだろう。」と、清はあざわらうように言った。「そんな常識的な防禦法で、この怪物……人魚以上の怪物が撃退されると思うか。駄目だ、駄目だ。精神的にも肉体的にも戦闘能力を全然奪われてしまって、僕は敗軍の兵卒のようにただ茫然としているあいだに、無数の敵は四方から僕の舟に乗込んで来た。どういうふうに攀《よ》じのぼって来たのか、僕もよく知らないが、ともかくも続々乗込んで来たのだ。こうなると、誰にでも考えられることは海亀の重量だ。大きい海亀は何貫目の重量があるか、君も知っているだろう。それが無数に乗込んで来て、しかも一匹の甲羅の上に他の一匹が乗る、又その上に一匹が乗るという始末で、かさなりあって乗るのだから堪《たま》らない。大石を積んだ小舟とおなじように、僕たちの舟はだんだんに沈んで行くのほかはない。無益とは知りながら、僕は血の出るような声を振りしぼって救いを呼びつづけたが、なにぶんにも岸は遠い。僕が必死の叫び声も、いたずらに水にひびいて消えてゆくばかりだ。これが平生の夜ならば、沖に相当の漁船も出ているのだが、いかんせん今夜は例の迷信で、広い海に一艘の舟も見えない。浜の者どもは盆踊りで夢中になっているらしい。僕たちが必死に苦しみもがいているのを、黙って眺めているのは今夜の月と星ばかりだ。僕たちの無抵抗をあざけるように、敵はいよいよ乗込んで来る。舟は重くなる。舟舷《ふなべり》から潮水がだんだんに流れ込んで来る。最後の運命はもう判り切っているので、僕は観念の眼をとじて美智子さんを両手にしっかりと抱いた。子供の時からこの海岸に育った僕だ。これが僕
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