桔梗の花を軽く投げ捨てた。
「それからどうしたね。」と、僕は催促するように訊いた。
「それから……。僕はこう言った。『多年の経験というけれども、多年のあいだには盂蘭盆の晩に海へ出て、一度や二度は偶然に何かの災難に遭った者がなかったとも限らない。その偶然の出来事を証拠にして、いつでもきっと有るように考えるのは間違いですよ。』――けれども、美智子さんは承知しないで、更にこんなことを言い出したんだ。『たとい偶然にしても、その偶然の出来事に今夜も出逢わないとは限りますまい。』――そういえばそんなものだが、なにしろ美智子さんがこんなことを言い出すのは、ふだんに似合わないことだ。しかし、いつまで議論をしても果てしがないから、僕はさからわずに舟を戻すことにした。
 その時だ。櫂《かい》を把っている僕の手を美智子さんはしっかり掴んで『あれ、あれ……人魚が……人魚が。』と言う。なんだろうと思って見かえると、なんにも見えない。月は皎々《こうこう》と明るく、海の上は一面に光っている。それでも僕の眼にはなんにも見えないのだ。美智子さんはさっきから変なことばかり言うから、これも何かの幻覚か錯覚だろうと思って、深くは気にも留めずにともかくも漕ぎ戻すことにすると、美智子さんはなんだか物にでも憑《つ》かれたように、発作的に気でも狂ったように、いつまでも僕の手を強く掴んで放さないで『あれ又……。あれ、人魚が……。』と繰返して言う。なにしろ僕の手を掴んでいられては、櫂を漕ぐことができない。舟は一つところに漂っているばかりだ。さあ、その時……。僕も見た……。僕も見た。」
 清は僕の腕をつかんで強く小突くのだ。ちょうど美智子が彼の手を掴んだように……。僕は小突かれながらも慌てて訊いた。
「君も見た……。なにを見たのだ。」
「月に光っている海の上に……。」と、清はその時のさまを思い出したように息をはずませた。「海の上に……。人の顔……人の顔が見えたのだ。浪のあいだから頭をあらわして……。」
「たしかに人の顔に見えたのか。」
「むむ。人の顔……。美智子さんのいう通りだ。」
「海亀だろう。」と、僕は言った。
 海亀――いわゆる正覚坊《しょうがくぼう》には青と赤の二種がある。青い海亀はもっぱら小笠原島附近で捕獲されるが、日本海方面に棲息するのは赤海亀の種類だ。赤といっても赤褐色だが、時にはずいぶん巨大なのを発見す
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