は夜見世のそぞろ歩きも出来ない。こんな晩には寄席へでも行くのほかは無い。寄席は劇場と違って、市内各区に幾軒も散在していて、めいめいの自宅から余り遠くないから、往復も便利である。木戸銭も廉い。それで一夜を楽しんで来られるのであるから、みんな寄席へ出かけて行く。今日の寄席がとかくに不振の状態にあるのは、その内容いかんよりも、映画その他の娯楽機関が増加したのと、交通機関が発達した為であると思う。実際、明治時代の一夜を楽しむには、近所の寄席へでも行くのほかは無かったのである。
 それであるから、近所の寄席へ行くと、かならず近所の知人に出逢うのであった。私は麹町区元園町(此頃は麹町二丁目に編入されてしまった)に生長したが、近所の寄席は元園町の青柳亭、麹町二丁目の万よし、山元町の万長亭で、これらの寄席へ行った時に、顔を見識っている人に逢わなかった例は一度もなかった。かならず二、三人の知人に出逢う。殊に正月などは、十人|乃至《ないし》二十人の知人に逢うことは珍しくなかった。私が子供の時には、その大勢の人達から菓子や煎餅や蜜柑などを貰うので、両方の袂が重くなって困ったことがあった。
 そんなわけで、その頃の寄席は繁昌したのである。時に多少の盛衰はあったが、私の聞いているところでは、明治時代の寄席は各区内に四、五軒乃至六、七軒、大小あわせて百軒を越えていたという。その中でも本郷の若竹亭、日本橋の宮松亭を第一と称し、他にも大きい寄席が五、六十軒あった。江戸以来、最も旧い歴史を有しているのは、私の近所の万長亭であると伝えられていた。私は子供の時からしばしばこの万長亭へ聴きに行ったので、江戸時代の寄席はこんなものであったかと云う昔のおもかげを想像することが出来たのである。
 寄席の種類は色物席と講談席の二種に分かれていた。色物とは落語、人情話、手品、仮声《こわいろ》、物真似、写し絵、音曲のたぐいをあわせたもので、それを普通に「寄席」というのである。一方の講談席は文字通りの講談専門で、江戸時代から明治の初期までは講釈場と呼ばれていたのである。寄席は原則として夜席、すなわち午後六時頃から開演するのを例としていたが、下町には正午から開演するものもあった。これを昼席と称して、昼夜二回興行である。但し昼夜の出演者は同一でないのが普通であった。講談席は大抵二回興行と決まっていた。
 寄席の木戸銭は普通三銭五厘、廉いのは三銭乃至二銭五厘、円朝の出演する席だけが四銭の木戸銭を取ると云われていたが、日清戦争頃から次第に騰貴して、一般に四銭となり、五銭となり、以後十年間に八銭又は十銭までに騰《あが》った。ほかに座蒲団の代が五厘、烟草盆が五厘、これもだんだんに騰貴して、一銭となり、二銭となったので、日露戦争頃に於ける一夕の寄席の入費は木戸銭と蒲団と烟草盆あわせて、一人十四、五銭となった。中入りには番茶と菓子と鮨を売りに来る。茶は土瓶一個が一銭、菓子は駄菓子や塩煎餅のたぐいで一個五厘、鮨は細長い箱に入れて六個三銭であったが、鮨を売ることは早く廃《すた》れた。
 東京電燈会社の創立は明治二十年であるが、その電燈が一般に普及されるようになったのは十数年の後であって、大抵の寄席は客席に大ランプを吊り、高坐には二個の燭台を置いていた。したがって、高坐に出ている芸人は途中で蝋燭の芯《しん》を切らなければならない。落語家などが自分の話をつづけながら蝋燭の芯を切るのは頗るむずかしく、それが満足に出来るようになれば一人前の芸人であると云われていた。今から思えば、場内は薄暗かったに相違ないが、その時代の夜は世間一般が暗いので、別に暗いとも感じなかったのである。しかも円朝が得意の「牡丹燈籠」にも「真景累ヶ淵」にも、この薄暗いと云うことが余ほどの便利をあたえていたらしい。円朝の話術がいかに巧妙でも、今日のように電燈煌々の場内では、あれだけに幽暗の気分を漂わすことが出来なかったかも知れないと察せられる。
 暗い話のついでに云うが、その頃の夜は甚だ暗いので、寄席へゆくには提灯を持参する人が多かった。女はみな提灯を持って行った。往く時はともかくも、帰り路が暗いからである。寄席の下足場にはめいめいの下駄の上に提灯が懸けてあった。そこで、閉場《はね》になると、場内の客が一度にどやどやと出て来る。それに対して、提灯の火を一々に点《つ》けて渡すのであるから、下足番は非常に忙がしい。雨天の節には傘もある。傘と提灯と下駄と、この三つを一度に渡すのであるから、寄席の下足番はよほど馴れていなければ勤められない事になっていた。その混雑を恐れて、自宅から提灯を持って迎いに来るのもあった。それも明治二十二、三年頃からだんだんに廃れて、日清戦争以後には提灯をさげて寄席へゆく人の姿を見ないようになった。それでも明治四十一年の秋
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