柳桜と燕枝
黙阿弥の作でしばしば上演を繰り返される世話狂言の一つに「髪結新三」がある。五代目菊五郎が初演以来の当たり狂言で、六代目も幾たびか舞台の上に復活している。書きおろしは明治六年、中村座の六月興行で、名題は「梅雨小袖昔八丈」という。原作は四幕十一場であるが、大詰の町奉行所などは初演だけにとどまって、再び舞台にのぼらない。
誰も知るごとく、この劇の見せ場は二幕目の深川富吉町新三宅の場で、菊五郎の新三と中村仲蔵の家主長兵衛が大好評を博したのである。作としても黙阿弥の作中で屈指の傑作と称せられている。しかもこれは黙阿弥の創作ではなく、やはり寄席の高坐から移植されたもので、春錦亭柳桜《しゅんきんていりゅうおう》の人情話である。
柳桜は名前を柳叟と云ったように記憶している。江戸末期から明治の中期にわたる人情話の真打株で、円朝ほどに華やかな人気はなかったが、江戸以来の人情話の本道を伝えているような、手堅い話し口であった。したがって、一部の人からは旧《ふる》いとも云われたが、その「四谷怪談」の如き、円朝とは又別種の凄味を帯びていた。かの「髪結新三」も柳桜が得意の読み物であった。私は麹町の万長亭で、柳桜の「髪結新三」を聴いたことがあるが、例の鰹の片身を分けるという件りは、芝居とちっとも違わなかった。して見ると、この件りは黙阿弥の創意をまじえず、ほとんど柳桜の口演をそのままに筆記したものらしい。ひとり円朝ばかりでなく、昔の落語家で真打株となるほどの人は、皆このくらいの才能を所有していたのであろう。
私は明治五年に生まれたのであるから、もとより「髪結新三」の初演を知らない。五代目菊五郎の新三を初めて観たのは明治二十六年五月の歌舞伎座である。書きおろしの仲蔵は長兵衛と弥太五郎源七の二タ役を勤めたのであるが、この時は初代左団次が源七を勤め、松助が長兵衛を勤めていた。左団次の源七は不評であったが、松助の家主は仲蔵以来の出来と称せられて、やはり富吉町の新三宅が呼び物となっていた。しかも私は世評の高い割合に、この場を面白いとは感じなかった。先入主《せんにゅうしゅ》の関係があるのかも知れないが、私には高坐で聴いた柳桜の話の方が面白いように思われてならなかった。新三と家主との鰹の対話の呼吸《いき》などは、柳桜の方が確かに巧かった。こう云うと、私は黙阿弥の作にケチを付け、あわせて菊五郎と松助の技芸にケチを付けるように思われるかも知れないが、ともかくも春錦亭柳桜という落語家がなければ、この当たり狂言は生まれ出なかったであろうと云うことだけをはっきりと云って置きたい。落語家の柳桜は薄暗いランプの寄席で一生を終わって、今はその名を記憶する者も少ない。黙阿弥や、菊五郎や、松助や、いずれも名人の誉れを後世に残している。それに対して一種の感慨がないでも無い。
大岡政談の中で最も有名なのは「天一坊」であろう。これも黙阿弥作の「扇音々《おうぎびょうし》大岡政談」によって今もしばしば上演を繰り返されているが、その原作は神田|伯山《はくさん》の講談である。伯山はこの講談の創作に苦心し、殊に紀州調べに遣わしたる家来らが容易に帰らず、百日の期日が尽きんとして越前守が切腹を覚悟するところへ、白石治右衛門、吉田三五郎の二人が馳せ着ける一節は、大いに肺肝を砕いたと伝えられる。舞台で観てもここが一日の見せ場である。
私は高坐で伯山の「天一坊」を聴いたことが無いので、高坐と舞台との間にどれだけの相違があるかを知らないが、物が物だけに、これは「髪結新三」などの世話物とは違って、原作以上に劇化されているものと察せられる。
この狂言を初演の当時、越前守を勤める坂東彦三郎と作者黙阿弥とのあいだに衝突があり、黙阿弥は脚本を取り返して立ち帰ろうとするのを、座主《ざぬし》の守田勘弥らが仲裁して無事に納まったという。彦三郎が座頭《ざがしら》の位地と人気を恃《たの》んで、脚本|改竄《かいざん》の我儘を主張したが為である。彦三郎といえども黙阿弥には敵し得ない。結局屈伏して原作の通りに上演することになったが、この狂言は非常の好評であったと云えば、彦三郎もいよいよ屈伏したであろう。黙阿弥も定めて痛快を感じたであろう。この初演は明治八年一月の新富座で、主なる役割は大岡越前守(坂東彦三郎)天一坊、白石治右衛門(尾上菊五郎)山内伊賀之助、吉田三五郎(市川左団次)等であった。
明治以後の黙阿弥作として最もよく知られているものに「河内山」がある。明治十四年三月の新富座初演で、名題は「天衣紛《くもにまがう》上野初花」と云うことになっているが、黙阿弥は明治七年十月の河原崎座で「雲上野|三衣策前《さんえのさくまえ》」の名題のもとに同じ題材を取り扱っている。要するに「上野初花」は「雲上野」の改作である。これも原
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