れに牡丹燈籠の怪談を結び付けたのである。伴蔵の一条だけが円朝の創意であるらしく思われるが、これにも何か粉本《ふんぽん》があるかも知れない。ともかくも、こうした種々の材料を巧みに組み合わせて、毎晩の聴衆を倦《う》ませないように、一晩ごとに必ず一つの山を作って行くのであるから、一面に於いて彼は立派な創作家であったとも云い得る。
 前にもいう通り、話術の妙をここに説くことは出来ないが、たとえば、かの孝助が主人の妾お国の密夫源次郎を突こうとして、誤って主人飯島平左衛門を傷つけ、それから屋敷をぬけ出して、将来の舅たるべき相川新五兵衛の屋敷へ駈け付けて訴える件《くだ》りなど、その前半は今晩の山であるから面白いに相違ないが、後半の相川屋敷は単に筋を売るに過ぎないで余り面白くもない所である。速記本などで読めば、軽々《けいけい》に看《み》過ごされてしまう所である。ところが、それを高坐で聴かされると、息もつけぬ程に面白い。孝助が誤って主人を突いたという話を聴き、相手の新五兵衛が歯ぎしりして「なぜ源次郎……と声をかけて突かないのだ。」と叱る。文字に書けば唯一句であるが、その一句のうちに、一方には大事|出来《しゅったい》に驚き、一方には孝助の不注意を責め、又一方には孝助を愛しているという、三様の意味がはっきりと現われて、新五兵衛という老武士の風貌を躍如たらしめる所など、その息の巧さ、今も私の耳に残っている。団十郎もうまい、菊五郎も巧い。しかも俳優は其の人らしい扮装《つくり》をして、其の場らしい舞台に立って演じるのであるが、円朝は単に扇一本を以て、その情景をこれほどに活動させるのであるから、実に話術の妙を竭《つく》したものと云ってよい。名人は畏《おそ》るべきである。
 そこで考えられるのは、今日《こんにち》もし円朝のような人物が現存していたならば、寄席はどうなるかと云うことである。一般聴衆は名人円朝のために征服せられて、寄席は依然として旧時の状態を継続しているのであろうか。さすがの円朝も時勢には対抗し得ずして、寄席はやはり漫談や漫才の舞台となるであろうか。私はおそらく後者であろうかと推察する。円朝は円朝の出づべき時に出たのであって、円朝の出づべからざる時に円朝は出ない。たとい円朝が出ても、円朝としての技倆を発揮することを許されないで終わるであろう。
 田村|成義《なりよし》翁の「続々歌舞伎年
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