(権十郎)娘おいさ(莚女)清水重次郎(米蔵)姉おまき(秀調)で、左団次と秀調が初演以来の持ち役であるために、この狂言が選抜されたらしいが、その後どこの大劇場でも重ねて上演しないので、円朝物の中でも忘れられた物の一つとなった。
私は余りに多く円朝を語り過ぎた観があるが、なんと云っても円朝が明治時代における落語界の大立者《おおだてもの》で、劇方面にも最も関係が多いのであるから已むを得ない。これから転じて他の落語講談の舞台との関係を説くのであるが、これは非常に範囲が広い。江戸時代には小説作者と狂言作者とのあいだに一種の不文律があって、非常に大当たりを取った小説は格別、普通は小説を劇化しない事になっていた。互いに相侵さざるの意であったらしい。しかも天保以後にはその慣例がだんだんに頽れて来た。それと同時に、講談や人情話を脚色することも流行して来た。黙阿弥が二代目新七の頃、仮名垣魯文と共に葺屋町《ふきやちょう》の寄席へ行ったことがある。そのとき高坐に上がって玉屋栄次(二代目狂訓亭と自称していた)が聴衆に向かってこんな事を云った。
「わたくし共の話をお聴きになるのは、お笑いの為ばかりでなく、いろいろとお為になることがございます。現に今晩も狂言作者で名高い河竹其水《かわたけきすい》(黙阿弥の俳名)さん、戯作で売り出しの鈍亭魯文先生なぞがお見えになって居ります。この先生方もわたくし共の話を聴いて、御商売の種になさいますので……。」
彼は黙阿弥と魯文の坐っている方を見ながら云ったので、他の聴衆も一度に二人を見返ると、魯文はにやにや笑っていた。黙阿弥はむっとして起《た》って帰った。ここにも魯文と黙阿弥の性格がよく現われているように思われる。高坐の上でそういう形式の自己宣伝を試みるのは穏当でないが、栄次も無根のことを口走ったのでは無い。実際その当時の戯作者や狂言作者が寄席の高坐から種々の材料を摂取していたのは、争いがたき事実であった。唯その人情話や講談のたぐいを小説化し又は戯曲化する場合に、どれだけ自己の創意を加えるかは、その作家の技倆如何に因るのであった。黙阿弥などの作には自己の創意が多量に加わっているのが多い。そんなわけであるから、江戸末期から明治の初年にわたる各種の世話狂言について、一々その出所を寄席の高坐に求めることになると、おそらく其の多きに堪えないであろう。
六
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