ったので、道中はかなりに退屈したらしい。おまけに、今夜の宿もよろしくなかったらしく、紀行には「其夜は雨ふりて寝心も好からんと思ひのほかにて、蚤多く眠りかね、五時に起き出で、支度なしたり。」とある。行く先きざきで蚤や蚊に責められていたのは気の毒である。円朝は決して下等な宿屋に泊まったのではないが、毎晩この始末。むかしの旅の不自由が思いやられる。
 三十一日は利根《とね》の渡《わたし》を越えて、中田の駅を過ぎる。紀行には「左右貸座敷軒をならべ、剥げちょろ白粉の丸ポチャちら/\見ゆる。」とあって、ここで「あだし野や馬に食はるゝ女郎花《おみなえし》」という俳句を作っている。一々紹介することは出来ないが、この紀行の詳細を極めているのは実に驚くべき程で、途中の神社仏閣、地理風俗、旅館、建場《たてば》茶屋、飲食店、諸種の見聞、諸物価など、ことごとく明細に記入してある。後日の参考に書き留めて置いたのであろうが、円朝ほどの落語家となれば、一編の人情話を創作するにも、これだけの準備をしている。彼が一代の名人と呼ばれたのも決して偶然でない。
 その晩は真間田の駅で旧本陣の青木方に泊まる。紀行に「この宿は蚊帳も夜具も清らかにて、快く臥しぬ。」とあるから、円朝も今夜は助かったらしい。読んでいても、やれやれと安心する。九月一日、半田川を渡って飯塚の駅へ休み、それから小金井の駅へ出ようとする時、路に迷って難儀する。さんざん行き悩んだ末に二十町ほどの山を越えて、午後二時頃にようよう小金井の駅に辿り着いたが、眼がまわるほど空腹になったという。ここで飯を食って出ると、途中で夕立、雷鳴、その夜は石橋駅の旧本陣伊沢方に泊まり、町へ出て盆踊りを見物する。紀行に「昨年まで娼妓も踊に出でたるに、税金一夜に付き一人金二両二分を差出せとの布告ありしより、今年は懲り/″\して出る者無し。」とある。
 二日は雀の宮を過ぎて宇都宮に着く。東京から五日間を費したわけである。ここでは午前十一時頃に手塚屋に泊まる。豊竹和国太夫がここに興行中であると聞いて、その宿屋をたずねると、和国太夫も悦んで迎えて、思いがけなき面会なりと、たがいに涙をながした。紀行には「実に朋友の信義は言の葉に述べ難きものなり。」とて、その当時の光景を叙してある。円朝が多感の人であったことは、これで察せられる。
 あくる三日は宇都宮を立って、日光街道にかかる
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