入りの観客に牡丹燈籠を画いた団扇を配った。同月二十三日の川開きには、牡丹燈籠二千個を大川に流した。こうした宣伝が効を奏して、この興行は大好評の大入りを占め、芝居を観ると観ざるとを問わず、東京市中に牡丹燈籠の名が喧伝された。今日ではどんなに大入りの芝居があっても、これ程の大評判にはなり得ない。
 その原因をかんがえるに、第一は社会がその当時よりも多忙で複雑になった為であろう。第二は東京が広くなった為であろう。第三は各劇場の興行回数が多くなった為であろう。この「牡丹燈籠」を上演した明治二十五年の歌舞伎座は、一月、三月、五月、七月、九月、十月の六回興行に過ぎなかった。今日では一年十二回の興行である。たとえば黙阿弥作の「十六夜清心《いざよいせいしん》」や「弁天小僧」のたぐい、江戸時代には唯一回しか上演されないにも拘らず、明治以後に至るまでその名は世間に知られていた。今日では、去年の狂言も今年は大抵忘れられてしまうのである。毎月休みなしの興行にあわただしく追い立てられて、観客の鑑賞力も記憶力も麻痺してしまうのであろう。
 劇場側ばかりでなく、世態もまた著しく変わった。明治時代、前記の「牡丹燈籠」上演の頃までは、市中の氷屋、湯屋、理髪店などのように諸人の集まる場所では、芝居の噂がよく出たものである。その噂をする客が多いために、湯屋の亭主や理髪店の親方も商売の都合上、新聞の演芸記事や世間の評判に注意していて、客を相手に芝居話などを流行らせたものである。したがって「湯屋髪結床の噂」なるものが、芝居の興行成績にも直接間接の影響をも及ぼしたのであるが、現今は殆んどそんなことは無い。湯屋や理髪店で野球や映画や相撲の噂をする客はあっても、芝居の噂をする客は極めて少ない。その相手になる亭主や親方も、自分が特に芝居好きでない限りは、芝居の話などをする者はない。
 紐育《ニューヨーク》や倫敦《ロンドン》で理髪店へゆくと、こっちが日本人で世間話の種が無いせいでもあろうが、芝居を観たかと必ず訊かれる。外国では「湯屋髪結床の噂」がやはり流行するらしい。巴里《パリ》にはバジン・テアトル(芝居風呂)などと洒落た名前を付けた湯屋もある。

     三 円朝の旅日記

 次は「塩原多助一代記」である。これも円朝の作として有名なものであるが、この作の由来について円朝自身が語るところに拠ると、彼が最初の考案は多
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