して1字下げ]
(十右衛門はそこらを見まわしながらやはりもじもじしている。半七は何を云いに来たのかと、相手の顔をながめている。)
[#ここで字下げ終わり]
十右衛 よいお天気がつづきまして、まことに仕合せでございます。
半七 ことしは余寒が強くないので大きに楽でございました。もう直きに彼岸が来る。雛市がはじまる。世間もだんだん陽気になって来ましょう。
十右衛 左様でございます。空の色などももうめっきりと春めいて参りました。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(十右衛門はいつまでももじもじしているので、半七は少し焦れったくなって、煙管《きせる》で火鉢の縁《ふち》をぽんぽん叩く。十右衛門はその音にびっくりしたように半七の顔を見る。)
[#ここで字下げ終わり]
半七 そこで、早速ですが、どんな御用でございますね。
十右衛 いや、どうもお忙がしいところへお邪魔に出まして、なんとも申訳がございません。
半七 そんな御挨拶には及びませんから、肝腎の御用を早く仰しゃって下さい。
十右衛 はい、はい。どうも恐れ入りましてございます。
半七 (じれる。)どうもいけねえな。もし、旦那。なんにも恐れ入ることはねえから、早く云って聞かして下さいよ。
十右衛 では、申上げますが……。(ようよう思い切って。)親分も御役柄で何もかも御承知の筈でございますが、具足町の和泉屋のせがれも飛んだことになりまして……。(眼をうるませる。)
半七 ははあ。それじゃあおまえさんもあの和泉屋を御存じなんですかえ。
十右衛 実はわたくしは和泉屋の女房おさきの兄でございます。
半七 むむ、そうですかえ。(少しく形をあらためる。)まったくお気の毒なことでしたね。あの晩お前さんも行っていなすったのか。
十右衛 わたくしは風邪《ふうじゃ》で昼間から臥せって居りましたので、あの晩は芝居見物にも参りませんでしたが、あとでその話を聴きまして実にびっくり致しました。
半七 (うなずく。)お察し申しますよ。
十右衛 就きましては、死んだ者は不時の災難で今更致し方もございませんが、さてそのあとの評判でございます。(ため息をついて。)世間の人の口はまことにうるさいもので、出入りの者などの中には何か詰まらないことを申す者もあるようで、妹も大層心配いたして居ります。
半七 (素知らぬ顔で。)詰まらないこととは……。どんな事を云
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