。勿論その子細はわからない。古びた机の上に兜をかざって線香をそなえ、ふたりはその前に死んでいたのである。
その話を聞かされて、勘次郎はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。そうして、その兜はどうしたかと訊くと、かれらの家には別にこれぞという親類もないので、近所の者がその家財を売って葬式をすませた。兜もそのときに古道具屋に売り払われてしまったとの事であった。かれらの墓もやはり円通寺にあるので、勘次郎は彰義隊の墓と共に拝んで帰った。その以来、彼は彰義隊の墓へまいるときには、かならずかの親子の小さい墓へも香花《こうげ》をそなえるのを例としていた。
憲法発布の明治二十二年には、勘次郎ももう四十四歳になっていた。その当時かれは築地に住んでいたので、夏の宵に銀座通りを散歩すると、夜みせの古道具屋で一つの古い兜を発見した。彼は言い値でその兜を買って帰った。あまりにいろいろの因縁がからんでいるので、彼はそれを見すごすに忍びないような気がしたからであった。
かれはその兜を形見として明治の末年に世を去った。相続者たる邦原君もその来歴を知っているので、そのままに保存して置いたのである。勿論、その兜が邦原家に復帰して以来、別に変ったこともなかった。道具屋の金兵衛は明治以後どうしているか判らなかった。
ところが、先年の震災にあたって、前にいったような、やや不思議な事件が出来《しゅったい》したのである。何者がその兜を邦原家の門前まで持出したか、また何者がそれを邦原君の避難先まで届けたか、それらの事情が判明すれば、別に不思議でもなんでもないことかも知れない。ああそうかと笑って済むことかも知れない。しかもその兜の歴史にはいろいろの因縁話が伴っているので、邦原君もなんだか気がかりのようでもあると言っている。したがってそれを届けてくれた女に逢わなかったのを甚だ残念がっているが、それを受取ったのは避難先の若い女中で、その話によると、かの女は三十四、五の上品な人柄で、あの際のことであるから余り綺麗でもない白地の浴衣を着て、破れかかった番傘をさしていたというのであった。
もう一つ、かの女の特徴ともいうべきは、左の眼の下に小さい痣のあることで、女中は確かにそれを認めたというのである。邦原君の父が箕輪で宿をかりた家の母らしい女も、左の眼の下に小さい痣があった。しかしその女はもう五十年前に自殺してしまった
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