時代に矯正すれば格別、成人してしまうとなかなか癒《なお》りかねるものだと申します。
 それから考えますと、わたくしの夫などもやはりその異嗜性の一人であるらしく思われます。子供の時代からその習慣があって、鰻屋のうなぎを盗んだのもそれがためで、路ばたの溝へ捨てたと言いますけれども、実は生きたままで食べてしまったのではないかとも想像されます。大人になっても、その悪い習慣が去らないのを、誰も気がつかずにいたのでしょう。当人もよほど注意して、他人に覚られないように努めていたに相違ありません。勿論、止《や》めよう止めようとあせっていたのでしょうが、それをどうしても止められないので、当人から見れば鰻に呪われているとでも思われたかも知れません。
 そこで、ごの温泉場へ来て松島さんと一緒に釣っているうちに、あいにくに鰻を釣りあげたのが因果で、例の癖がむらむらと発して、人の見ない隙《すき》をうかがってひと口に食べてしまうと、又あいにくに私がそれを見付けたので……。つまり双方の不幸とでもいうのでございましょう。よもやと思っていた自分の秘密を、妻のわたくしが知っていることを覚ったときに当人もひどく驚き、又ひどく恥じたのでしょう。いっそ正直に打ち明けてくれればよかったと思うのですが、当人としては恥かしいような、怖ろしいような、もう片時もわたくしとは一緒にいられないような苦しい心持になって、前後の考えもなしに宿屋をぬけ出してしまったものと察せられます。
 それからどうしたか判りませんが、もうこうなっては東京へも帰られず、けっきょく自暴自棄になって、自分の好むがままに生活することに決心したのであろうと思われます。千住のうなぎ屋へ姿をあらわすまで丸二年半の間、どこを流れ渡っていたか知りませんが、自分の食慾を満足させるのに最も便利のいい職業をえらぶことにして、諸方の鰻屋に奉公していたのでしょう。片眼を潰したのは粗相でなく、自分の人相を変えるつもりであったろうと察せられます。おそらく鰻の眼を刺すように、自分の眼にも錐《きり》を突き立てたのでしょう。こうなると、まったく鰻に呪われていると言ってもいいくらいで、考えても怖ろしいことでございます。
 片眼をつぶしても、やはり松島さんに見付けられたので、当人は又おそろしくなって何処へか姿を隠したのでしょうが、どういう動機で半年後に手紙をよこしたのか、それは判りません。その後のことも一切わかりませんが、多分それからそれへと流れ渡って、自分の異嗜性を満足させながら一生を送ったものであろうと察せられます。
 こう申上げてしまえば、別に奇談でもなく、怪談でもなく、単にわたくしがそういう変態の夫を持ったというに過ぎないことになるのでございますが、唯ひとつ、私としていまだに不思議に感じられますのは、前に申上げた通り、わたくしが初めて縁談の申込みを受けました当夜に、いやな夢をみましたことで……。こんなお話をいたしますと、どなたもお笑いになるかも知れません、わたくし自身もまじめになって申上げにくいのですが――わたくしが鰻になって爼板の上に横たわっていますと、印半纏を着た片眼の男が錐を持ってわたくしの眼を突き刺そうとしました。その時には何とも思いませんでしたが、後になって考えると、それが夫の将来の姿を暗示していたように思われます。秋夫は片眼になって、千住のうなぎ屋の職人になって、印半纏を着て働いていたというではありませんか。
 夢の研究も近来はたいそう進んでいるそうでございますから、そのうちに専門家をおたずね申して、この疑問をも解決いたしたいと存じております。



底本:「鷲」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年8月20日初版1刷発行
初出:「オール讀物」
   1931(昭和6)年10月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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