はずいぶんそうぞうしくて、水の音よりも蛙の声の方が邪魔になるぐらいでございました。」
「そうですか。ここらも年々繁昌するにつれて、だんだんに開けてきたでしょうからな。」と、私はうなずいた。「この川の上《かみ》の方へ行きますと、岩の上で釣っている人を時々に見かけますが、山女《やまめ》を釣るんだそうですな。これも宿の人の話によると、以前はなかなかよく釣れたが、近年はだんだんに釣れなくなったということでした。」
 なに心なくこう言った時に、夫人の顔色のすこしく動いたのが、薄暗いなかでも私の目についた。
「まったく以前は山女がたくさんに棲んでいたようでしたが、川の両側へ人家が建ちつづいてきたので、このごろはさっぱり捕れなくなったそうです。」と、夫人はやがて静かに言い出した。「山女のほかに、大きい鰻もずいぶん捕れましたが、それもこのごろは捕れないそうです。」
 こんな話はめずらしくない。どこの温泉場でも滞在客のあいだにしばしば繰返される。退屈しのぎの普通平凡の会話に過ぎないのであるが、その普通平凡の話が端緒《たんしょ》となって、わたしは田宮夫人の口から決して平凡ならざる一種の昔話を聞かされることになったのである。
 他人はもちろん、肉親の甥にすらもかつて洩らさなかった過去の秘密を、夫人はどうして私にのみ洩らしたのか。その事情を詳しくここで説明していると、この物語の前おきが余りに長くなるおそれがあるから、それらはいっさい省略して、すぐに本題に入ることにする。そのつもりで読んでもらいたい。
 夫人の話はこうである。

     二

 わたくしは十九の春に女学校を卒業いたしました。それは明治二十七年――日清戦争の終った頃でございました。その年の五月に、わたくしは親戚の者に連れられて、初めてこのUの温泉場へまいりました。
 ご承知でもございましょうが、この温泉が今日《こんにち》のように、世間に広く知られるようになりましたのは、日清戦争以後のことで、戦争の当時陸軍の負傷兵をここへ送って来ましたので、あの湯は切創《きりきず》その他に特効があるという噂《うわさ》がにわかに広まったのでございます。それと同時にその負傷兵を見舞の人たちも続々ここへ集まって来ましたので、いよいよ温泉の名が高くなりました。わたくしが初めてここへ参りましたのも、やはり負傷の軍人を見舞のためでした。
 わたくしの家で平素から御懇意にしている、松島さんという家《うち》の息子さんが一年志願兵の少尉で出征しまして、負傷のために満洲の戦地から後送されて、ここの温泉で療養中でありましたので、わたくしの家からも誰か一度お見舞に行かなければならないというのでしたが、父は会社の用が忙がしく、あいにくに母は病気、ほかに行く者もありませんので、親戚の者が行くというのを幸いに、わたくしも一緒に付いて来ることになったのでございます。
 人間の事というものは不思議なもので、その時にわたくしがここへ参りませんでしたら、わたくしの一生の運命もよほど変ったことになっていたであろうと思われます。勿論、その当時はそんなことを夢にも考えようはずもなく、殊に一種の戦争熱に浮かされて、女のわたくし共までが、やれ恤兵《じゅっぺい》とか慰問とか夢中になって騒ぎ立てている時節でしたから、負傷の軍人を見舞のためにUの温泉場へ出かけて行くなどということを、むしろ喜んでいたくらいでした。
 今日《こんにち》と違いまして、その当時ここまで参りますのは、かなりに不便でございましたが、途中のことなど詳しく申上げる必要もございません。ここへ着いて、まず相当の宿を取りまして、その翌日に松島さんをお見舞に行きました。お菓子や煙草やハンカチーフなどをお土産に持って行きまして、松島さんばかりでなく、ほかの人たちにも分けてあげますと、どなたも大層嬉しがっておいででした。わたくし共はもうひと晩ここに泊って、あくる朝に帰る予定でしたから、その日は自分たちの宿屋へ引揚げて、風呂にはいって休息しましたが、初夏の日はなかなか長いので、夕方から連れの人たちと一緒に散歩に出ました。連れというのは、親戚の夫婦でございます。
 三人は川伝いに、爪先《つまさき》あがりの狭い道をたどって行きました。町の様子はその後よほど変りましたが、山の色、水の音、それは今もむかしも余り変りません。さっきも申す通り、ただ騒々しいのは蛙の声でございました。わたくし共は何を見るともなしに、ぶらぶらと歩いて行くうちに、いつか人家のとぎれた川端へ出ました。岸には芒《すすき》や芦《あし》の葉が青く繁っていて、岩にせかれてむせび落ちる流れの音が、ここらはひとしお高くきこえます。ゆう日はもう山のかげに隠れていましたが、川の上はまだ明るいのです。その川のなかの大きい岩の上に、二人の男の影がみえました。
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