った。わたしは月を踏んで町の方角へ引っ返した。
 どう考えても、曽田屋の一家は気の毒である。殊に本人の娘たちは可哀そうである。前にもいう通り、かの姉妹は色情狂というよりも、おそらく一種のヒステリー患者であろう。書記や小使は格別の注意を払っていないらしいが、姉妹に対する若い大工の恋愛事件、それが何かの強い衝撃を彼女らに与えたのではあるまいか。大工は姉妹にむかって何事を言ったのか、何事を仕掛けたのか、その現場に立会っていた者でない限りは、大方こんな事であったろうと想像するにとどまって、その真相を明らかに知り得ないのである。
 大工は親方に殴られて、曽田屋の人々に謝罪して、その後はおとなしく熱心に働いていたというが、果たして其の通りであったか。その後にも親方らの眼をぬすんで、若い女たちをおびやかすような言動を示さなかったか。それらの事情が判明しない以上、この問題を明らかに解決することは不可能である。
 しかもあの姉妹が果たしてヒステリー患者であるとすれば、それを救う方法が無いではない。曽田屋の父兄らに注意をあたえて、適当の治療法を講ずればよい。だが困るのは、その問題が問題であるだけに、父兄の方から言い出せば格別、わたしの方から父兄にむかって、ここの家の普請中にこんな出来事があったか、又その後に娘たちがどうして淫蕩の女になったか、それらの秘密を露骨に質問するわけにはゆかない。殊に今度初めて投宿した家で、双方の馴染みが浅いだけに猶更工合が悪い。さりとてこのままに見過すのも気が咎《とが》める。せめては番頭にでも内々で注意して置こうかなどと考えながら、もと来た道をぶらぶらと歩いて来ると、月の明かるい宵であるにも拘らず、どこからどうして出て来たのか判らなかったが、おそらく路ばたの櫨《はぜ》の木の蔭からでも飛び出して来たのであろう、ひとりの男の姿が突然にわたしの行く手にあらわれた。と思う間もなく、つづいて又ひとりの女があらわれた。
 その男と女が氷垣とお時であることを私はすぐに覚った。お時は何か小さい刃物を持っているらしく、それを月の光りにひらめかしながら、男に追い迫って来るように見られるので、私もおどろいて遮《さえぎ》った。私という加勢を得たので、氷垣も気が強くなったらしく、引っ返して女を取鎮めようとした。お時は見掛けによらない強い力で暴れ狂ったが、なんといっても相手は男二人である
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