絶えず彷彿《ちらつ》く怪しの影を捉えて、一心不乱に筆を染めた結果、何《ど》うやら斯《こ》うやら其《そ》の真《しん》を写し得て、先《ま》ず大略《あらまし》は出来《しゅったい》した頃、丁度《ちょうど》私と引違《ひきちが》えて彼《か》の別荘へ避暑に出かけた貴族エル何某《なにがし》が、其《そ》の本邸に帰ったという噂を聞いたので、先日の礼かたがた其《そ》の邸《やしき》を初めて訪問した。主人《あるじ》のエルは喜んで私を応接間へ延《ひ》いて、「過日は別荘の方へ御立寄《おたちより》下すったそうでしたが、アノ通りの田舎家で碌々《ろくろく》お構い申しも致さんで、豪《えら》い失礼しました」と鄭寧《ていねい》な挨拶、私は酷《ひど》く痛み入《い》って、「イヤどうも飛んだ御厄介になりました、実はモウ四五日もお邪魔をいたす筈でしたが、宅の方に急用が出来ましたので、早々にお暇《いとま》いたしました」と、口から出任せの口上、何にも知らぬ主人《あるじ》は首肯《うなず》いて、「ハアそうでしたか、私もお跡《あと》から直《すぐ》に別荘へ出かけましたが、貴方はモウお帰りになったと聞いて、甚だ失望しました、併《しか》し幸い今日は何《なん》にも用事もありませんから、ゆるゆるお噺《はなし》でも伺いたいものです」と、誠に如才《じょさい》ない接待振《あつかいぶり》で、私も思わずここに尻を据えて、殆《ほとん》ど三時間ほども世間噺に時を移した。それから、先祖代々の肖像画をお目にかけようと云うので、主人《あるじ》が先に立って奥の一室へ案内する、私も何心《なにごころ》なく其《そ》の跡について行くと、貴族の家の習慣《ならい》として、広い一室の壁に先祖代々の人々の肖像画が順序正しく懸《か》け列《つら》ねてある。で、一々これを仰《あお》ぎ視《み》ている中《うち》に、私は思わずアッと叫んだ。と云うのは他《ほか》でもない、彼《か》の恐しい貴婦人の顔が活けるが如くに睨んでいるのだ。其《そ》の恐しい顔、実に先夜の顔と寸分|違《たが》わず、彼《か》の幽霊が再びここへ迷い出たかと思われる位《くらい》、私は我にもあらで身を顫《ふる》わせた。その挙動が余《よ》ほど不思議に見えたのであろう、主人《あるじ》は私の顔をジロジロ視《み》て、「あなた、どうか為《し》ましたか」私は半《なかば》は夢中で、「ハイあれです、確《たしか》にあれです、私は確《たしか》に見ました」と辻褄《つじつま》のあわぬ返事、主人は愈《いよい》よ不思議そうに眉を顰《ひそ》めたが、やがて俄《にわか》に笑い出して、「あなた、其《そ》の人に逢った事がありますか。それは百年も以前《まえ》の人です、アハハハハ」と、斯《こ》う云われて私も気が付いた、成《なる》ほど其《そ》の仔細を知らぬ主人《あるじ》が不思議に思うも道理《もっとも》と、ここで彼《か》の別荘の怪談を残らず打明《うちあ》けると、主人《あるじ》もおどろいて面色《いろ》を変えて、霎時《しばし》は詞《ことば》もなかったが、やがて大息ついて、「世には不思議な事もあるものですな、実はこの婦人に就《つい》ては一条の噺《はなし》があるので」と、曩《さき》に彼《か》の別荘の番人が語った通りの昔語《むかしかたり》、それを聞けば最早疑うべくもないが、いまは百年も昔の事、其《そ》の以来|曾《かつ》て斯《かか》る怪異《あやしみ》を見た者もなく、現に十五六年来も其《そ》の別荘に住む番人夫婦すらも、曾《かつ》て見もせず聞きもせぬ幽霊の姿を、無関係の私が何《どう》して偶然に見たのであろう、加之《しか》も二晩もつづけて見るというのは実に解《げ》し兼ぬる次第で、思えば思うほど実に不思議な薄気味の悪い噺《はなし》だ。で、主人《あるじ》の驚愕《おどろき》は私よりも又一倍で、そう聞く上は最早一刻も猶予は出来ぬ、早速その窓を取毀《とりこわ》し、時宜《じき》に依《よ》れば其《そ》の室全体を取壊《とりくず》して了《しま》わねばならぬと、直《すぐ》に家令を呼んで其《そ》の趣《おもむき》を命令した。で、今頃は其《そ》の窓も容赦なく取毀《とりこわ》されて、継母《ままはは》の執念も其《そ》の憑《よ》る所を失ったであろうか。

 以上が画工エリックの物語で、同雑誌記者の附記する所によれば、彼《か》の画工の筆に成った恐しき婦人の絵姿は此《こ》のほど全く出来《しゅったい》したが、何さま一種云われぬ物凄い恐しい顔である、婦人の如き、其《そ》の図を一目見るや忽《たちま》ちに魘《おび》えて顫《ふる》えて、其後《そのご》一週間ほどは病床に倒れたという。で、普通の日本人の考慮《かんがえ》から云うと、殺した方の人が化けて出るというのは、些《ち》と理屈に合わぬように聞《きこ》えるが、何分にも其処《そこ》が怪談、万事不可思議の所が事実譚《じじつだん》の価値《ねうち》であろ
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