くと、彼は待ちかねたようにそれを受取った。
「向田大尉殿は東京へ行ったのですか。」と、佐山君は訊いた。
「そうだ。」と、支店長は気の毒そうに言った。「今だから言うが、あの人はやめたんだよ。」
「なぜです。」
「悪い弟を持ったんでね。」
支店長はいよいよ気の毒そうな顔をしていたが、その以上の説明はなんにも与えてくれなかった。向田大尉――あの勤勉な向田大尉は、軍国多事の際に職をやめたのである。佐山君もなんだか暗い心持になって、黙って支店長の前を退いた。
「お話はまずこれぎりです。」と、星崎さんは言った。「佐山君もその以上のことは実際なんにも知らないそうです。しかし支店長のただ一句、――悪い弟を持った――それからだんだん推測すると、この事件の秘密もおぼろげながら判って来るようにも思われます。向田大尉には弟がある。それがよくない人間で、どこからか大尉のところへふらりと訪ねて来た。佐山君が川べりで夕方出逢った男は、おそらく本人の大尉でなく、その弟であったろうと思われます。兄弟であるから顔付きもよく似ている。ことに夕方のことですから、佐山君が見違えたのかも知れません。いや、佐山君ばかりでなく、火薬庫の哨兵も司令部の人たちも、一旦は見あやまったのでしょう。して見ると、狐が大尉に化けたのではなく、弟が大尉に化けたのらしい。その弟がなぜまた夜ふけに火薬庫の付近を徘徊していたのかそれはよく判りません。それが戦争中であるのと、本人がよくない人間であるのと、この二つを結びあわせて考えれば、大抵は想像が付くように思われます。弟が突き殺されてしまったところへ、兄の大尉が駈けつけて来て、いっさいの事情が明白になった結果、大尉の同情者の計らいで、その死体がいつの間にか狐に変って、何事も狐の仕業《しわざ》ということになったらしい。大尉の家からこっそり運び出された白木の棺も、仏壇に祀られていた新しい位牌も、すべてその秘密を語っているのではありますまいか。こうしてまず世間をつくろって置いて、大尉も弟の罪を引受けて職をなげうった――。いや、これはみんな私の想像ですから、嘘かほんとうか、もちろん保証は出来ません。向田大尉のためにはやはり狐が化けたことにして置いた方がいいかも知れません。狐が化けたのなら議論はない。人間が化けたとなると、いろいろ面倒になりますからね。」
底本:「蜘蛛の夢」光文社文庫、光文社
1990(平成2)年4月20日初版1刷発行
初出:「子供役者の死」隆文館
1921(大正10)年3月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:花田泰治郎
2006年5月7日作成
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