るところを、人に見つけられては工合が悪いので、彼はわざと知らぬ顔をして行き過ぎてしまった。――そんなことは実際ないともいえない。佐山君は大尉が無愛想の理由をまずこう解釈して、そのままに自分の店へ帰った。夕飯を食うときに、佐山君は古参の朋輩に訊いた。
「向田大尉は釣りが好きですか。」
「釣り……。」と、彼はすこし考えていた。「そんな話は聞かないね。向田大尉は非常な勉強家で、暇さえあれば家で書物と首っぴきだそうだ。」
川端でさっき出逢った話をすると、彼は急に笑い出した。
「そりゃきっと人違いだよ。大尉はこのごろ非常に忙がしいんだから、悠々と釣りなんぞしている暇があるものか、夜ふけに家へ帰って寝るのが関の山だよ。第一、あの川で何が釣れるものか。ずっと下《しも》の方へ行かなければなんにも引っかからないことは、長くここにいる大尉がよく知っている筈だ。あすこらで釣竿をふり廻しているのは、ほんの子供さ。大人《おとな》がばかばかしい、あんなところへ行って暢気《のんき》に餌《えさ》をおろしていられるものか。」
そう聞くと、どうも人違いでもあるらしい。うす暗い川端で自分は誰かを見あやまったのであろう。彼が挨拶なしに行き過ぎてしまったのも無理はなかった。勤勉の大尉殿がこの際に、見す見す釣れそうもない所で悠々と糸を垂れている筈がない。こう思いながらも、佐山君の胸にはまだ幾分の疑いが残っていて、蘆のあいだから釣竿を持って出て来た人は、どうも向田大尉に相違ないらしく思われてならなかった。しかし、どちらにしたところで、それがさしたる大問題でもないので、佐山君もその以上に深く考えて見ようともしなかった。
「それとも、君は狐に化かされたのかも知れないよ。」と、朋輩はからかうように又笑った。「君も知っているだろうが、あの火薬庫の近所には狐や狸がたびたび出て来るんだからね。この頃は滅多《めった》にそんな話は聞かないが、以前はよくあの辺で狐に化かされた者があったそうだ。」
「そうかも知れない。」
佐山君も笑った。しかし内心はあまり面白くなかった。どう考えても、かの男は向田大尉に相違ないように思われた。なんとかして大尉が確かにあすこで魚釣りをしていたという証拠をつかまえて、自分をあざけっている朋輩どもを降参させてやりたいようにも思ったが、この上にそんなことを考えるべく彼はあまりに疲れていた。十時ごろに
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