たのです。」
「たしかに大尉殿であったのですか。」と、佐山君は念を押した。
「そうであります。わたしも確かに見ました。」
 一方の大尉が無事である以上、殺された大尉殿は狐でなければならない。しかしそれがどうしても佐山君には信じられなかった。昔話ならば格別、実際に於いてそんな事実が決してあり得《う》べき筈がないと彼は思った。戸塚特務曹長はこれからその件に就いて火薬庫まで行くというので、佐山君も彼と一緒に行って現場の様子を見とどけ、あわせて昨夜の出来事の真相を知りたいと思って、かの川べりの丘の方へ肩をならべて歩き出した。
「で、いったいゆうべの事件というのはどうしたのですか。狐が大尉どのに化けて、何かいたずらでもしたのですか。」
「それはこういう訳です。」と、特務曹長は薄い口髭をひねりながら、重い口でぽつりぽつりと話し出した。「ゆうべ、いや今朝の一時ごろです。あの火薬庫の草むらの中にぼんやりと灯のかげが見えたのです。あの辺は灌木《かんぼく》やすすきが一面に生《お》い茂っている所で、その中から灯が見えたかと思ううちに、ひとりの人間が提灯を持って火薬庫の前へ近寄って来ました。哨兵《しょうへい》がよく見ると、それは向田大尉殿でありました。哨兵はむろん大尉殿の顔を識っています。ことに大尉殿は軍服を着て、司令部の提灯を持っているのですから、なんにも疑うところはないのであるが、軍隊の規律としてただ見逃がすわけには行かないので、哨兵は銃剣をかまえて『誰かッ』と声をかけたのです。けれども相手はなんにも返事をしない。哨兵は再び声をかけて『停まれッ』といったのですが、やはり停まらない。三度目に声をかけても、やはり黙っているので、哨兵はもう猶予するわけには行かなくなったのです。」
「でも、見す見す向田大尉殿だったのでしょう。」と、佐山君はさえぎるように言った。
「軍隊の規律ですから已むを得ません。」と、特務曹長はおごそかに答えた。「殊に火薬庫の歩哨《ほしょう》は重大の勤務であります。三度まで声をかけても答えない以上、それが見す見す向田大尉殿であっても打っちゃっては置かれません。哨兵は駈け寄って、その銃剣でひと突きに突き殺してしまったのです。そうして、その次第を報告すると、司令部の方でも大騒ぎになって、当直の将校たちもすぐに駈け付けてみると、死んでいるのは確かに向田大尉殿でありました。」
「あ
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