たしの横町ではどこでも荷ごしらえをするらしい様子もみえなかった。午前一時頃、わたしは麹町の大通りに出てみると、電車道は押返されないような混雑で、自動車が走る、自転車が走る。荷車を押してくる、荷物をかついでくる。馬が駈ける、提灯《ちょうちん》が飛ぶ。色々のいでたちをした男や女が気ちがい眼でかけあるく。英国大使館まえの千鳥ヶ淵公園附近に逃げあつまっていた番町方面の避難者は、そこにも火の粉がふりかかって来るのにうろたえて、更に一方口の四谷方面にその逃げ路《みち》を求めようとするらしく、人なだれを打って押寄せてくる。うっかりしていると、突き倒され、蹈みにじられるのは知れているので、わたしは早々に引返して、更に町内の酒屋の角に立って見わたすと、番町の火は今や五味坂上の三井邸のうしろに迫って、怒濤のように暴れ狂う焔のなかに西洋館の高い建物がはっきりと浮き出して白くみえた。
 迂回してゆけば格別、さし渡しにすれば私の家から一|町《ちょう》あまりに過ぎない。風上であるの、風向きが違うのと、今まで多寡《たか》をくくっていたのは油断であった。――こう思いながら私は無意識にそこにある長床几に腰をかけた。床几
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