も一本の蝋燭《ろうそく》の火が微《かすか》にゆれて、妻と女中と手つだいの人があわただしく荷作りをしていた。どの人も黙っていた。
 万一の場合には紀尾井町のK君のところへ立退《たちの》くことに決めてあるので、私たちは差当りゆく先に迷うようなことはなかったが、そこへも火の手が追って来たらば、更にどこへ逃げてゆくか、そこまで考えている余裕はなかった。この際、いくら慾張ったところでどうにも仕様はないので、私たちはめいめいの両手に持ち得るだけの荷物を持ち出すことにした。わたしは『週刊朝日』の原稿をふところに捻じ込んで、バスケットに旅行用の鞄《かばん》とを引っさげて出ると、地面がまた大きく揺らいだ。
「火の粉が来るよう。」
 どこかの暗い家根のうえで呼ぶ声が遠くきこえた。庭の隅にはこうろぎの声がさびしくきこえた。蝋燭をふき消した私の家のなかは闇になった。
 わたしの横町一円が火に焼かれたのは、それから一時間の後であった。K君の家へゆき着いてから、わたしは『宇治拾遺物語』にあった絵仏師の話を思い出した。彼は芸術的満足を以て、わが家の焼けるのを笑いながらながめていたということである。わたしはその烟《け
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