大正十二年九月一日を迎えたのであった。この朝は誰も知っている通り、二百十日前後に有勝《ありがち》の何となく穏かならない空模様で、驟雨《しゅうう》がおりおりに見舞って来た。広くもない家のなかは忌《いや》に蒸暑かった。二階の書斎には雨まじりの風が吹き込んで、硝子戸《ガラスど》をゆする音がさわがしいので、わたしは雨戸をしめ切って下座敷の八畳に降りて、二、三日まえから取りかかっている『週刊朝日』の原稿をかきつづけていた。庭の垣根から棚のうえに這《は》いあがった朝顔と糸瓜《へちま》の長い蔓《つる》や大きい葉が縺《もつ》れ合って、雨風にざわざわと乱れてそよいでいるのも、やがて襲ってくる暴風雨を予報するようにも見えて、わたしの心はなんだか落ちつかなかった。
勉強して書きつづけて、もう三、四枚で完結するかと思うところへ、図書刊行会の広谷君が雨を冒して来て、一時間ほど話して帰った。広谷君は私の家から遠くもない麹町《こうじまち》山元町に住んでいるのである。広谷君の帰る頃には雨もやんで、うす暗い雲の影は溶けるように消えて行った。茶の間で早い午飯をくっているうちに、空は青々と高く晴れて、初秋の強い日のひかりが庭一面にさし込んで来た。どこかで蝉も鳴き出した。
わたしは箸を措《お》いて起《た》った。天気が直ったらば、仕事場をいつもの書斎に変えようと思って、縁先へ出てまぶしい日を仰いだ。それから書きかけの原稿紙をつかんで、玄関の二畳から二階へ通っている階子段《はしごだん》を半分以上も昇りかけると、突然に大きい鳥が羽搏《はばた》きをするような音がきこえた。わたしは大風が吹き出したのかと思った。その途端にわたしの蹈んでいる階子がみりみりと鳴って動き出した。壁も襖《ふすま》も硝子窓も皆それぞれの音を立てて揺れはじめた。
勿論、わたしはすぐに引返して階子をかけ降りた。玄関の電灯は今にも振り落されそうに揺れている。天井から降ってくるらしい一種のほこりが私の眼鼻にしみた。
「地震だ、ひどい地震だ。早く逃ろ。」
妻や女中に注意をあたえながら、ありあわせた下駄を突っかけて、沓《くつ》ぬぎから硝子戸の外へ飛び出すと、碧桐《あおぎり》の枯葉がぱさぱさと落ちて来た。門の外へ出ると、妻もつづいて出て来た。女中も裏口から出て来た。震動はまだ止まない。わたしたちは真直に立っているに堪えられないで、門柱に身をよせて取
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