へ一旦《いったん》踏み込んだ以上、客もすぐには帰らない。宿屋の方でも直《す》ぐには帰らないものと認めているから、双方ともに落着いた心持で、そこにおのずから暢《のび》やかな気分が作られていた。
 座敷へ案内されて、まず自分の居どころが決まると、携帯の荷物をかたづけて、型のごとくに入浴する。そこで一息ついた後、宿の女中にむかって両隣の客はどんな人々であるかを訊《き》く。病人であるか、女づれであるか、子供がいるかを詮議した上で、両隣へ一応の挨拶にゆく。
「今日からお隣へ参りましたから、よろしく願います。」
 宿の浴衣《ゆかた》を着たままで行く人もあるが、行儀の好い人は衣服をあらためて行く。単に言葉の挨拶ばかりでなく、なにかの土産《みやげ》を持参するのもある。前にもいう通り、滞在期間が長いから、大抵の客は甘納豆とか金米糖とかいうたぐいの干菓子をたずさえて来るので、それを半紙に乗せて盆の上に置き、御退屈でございましょうからといって、土産のしるしに差出すのである。
 貰った方でもそのままには済まされないから、返礼のしるしとして自分が携帯の菓子類を贈る。携帯品のない場合には、その土地の羊羹《ようかん
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