。紳士はもう六十に近い人であろう、容貌といい、服装といい、いかにも代表的のイングリッシュ・ゼントルマンらしい風采の人物で、叮嚀に会釈して我々の向うに席を占めた。O君があわてて喫いかけた巻莨の火を消そうとすると、紳士は笑いながら徐かに云った。
『どうぞお構いなく……。わたくしもすいます。』
 七時五十五分に出る筈の列車がなかなか出ない、一行三十余人はことごとく乗り込んでしまっても、列車は動かない。八時を過ぎて、ようように汽笛は鳴り出したが、速力は頗る鈍い。一時間ほども走ると、途中で不意に停車する。それから又少し動き出したかと思うと、十分ぐらいで又停車する。英国紳士はクックの案内者をつかまえて其理由を質問していたが、案内者も困った顔をして笑っているばかりで、詳しい説明をあたえない。斯ういう始末で、一進一止、捗らないことおびただしく、われわれももううんざりして来た。きょうの一行に加わって来た米国の兵士五六人は、列車が停止するたびに車外に飛び出して路ばたの草花などを折っている。気の早い連中には実際我慢が出来ないであろうと思い遣られた。
 窓をあけて見渡すと、何というところか知らないが、青い水が線路を斜めに横ぎって緩く流れている。その岸には二三本の大きい柳の枝が眠むそうに靡いている。線路に近いところには低い堤が蜿ってつづいて、紅い雛芥子と紫のブリュー・ベルとが一面に咲きみだれている。薄のような青い葉も伸びている。米国の兵士はその青い葉をまいて笛のように吹いている。一町も距れた畑のあいだに、三四軒の人家の赤煉瓦が朝の日に暑そうに照されている。
『八十五六度だろう。』と、I君は云った。汽車が停まると頗る暑い。われわれが暑がって顔の汗を拭いているのを、英国紳士は笑いながら眺めている。そうして、『このくらいならば歩いた方が早いかも知れません。』と云った。われわれも至極同感で、口を揃えてイエス・サーと答えた。
 英国紳士は相変らずにやにや笑っているが、我々はもう笑ってはいられない。
『どうかして呉れないかなあ。』
 気休めのように列車は少し動き出すかと思うと、又すぐに停まってしまう。どの人もあきあきしたらしく、列車が停まると皆な車外に出てぶらぶらしていると、それを車内へ追い込むように夏の日光はいよいよ強く照り付けてくる。眼鏡をかけている私もまぶしい位で、早々に元の席へ逃げて帰ると、列車
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング