た》りが忽《たちま》ちにあらわれ来ったものと知られたが、軍医部は少し離れているので、薬をもらいに行くことも出来ない。持合せの宝丹を塗ったぐらいでは間に合わない。私はアンペラの敷物の上にころがって苦しんだ。
歯はいよいよ痛む。いっそ夜風に吹かれたら好いかも知れないと思って、私はよほど腫《は》れて来たらしい右の頬をおさえながら、どこを的ともなしに門外まで迷い出ると、月の色はますます明るく、門前の小川の水はきらきら[#「きらきら」に傍点]と輝いて、堤の柳の葉は霜をおびたように白く光っていた。
わたしは夜なかまでそこらを歩きまわって、二度も歩哨《ほしょう》の兵士にとがめられた。宿へ帰って、午前三時頃から疲れて眠って、あくる朝の六時頃、洗面器を裏手の畑へ持ち出して、寝足らない顔を洗っていると、昨夜来わたしを苦しめていた下歯一枚がぽろり[#「ぽろり」に傍点]と抜け落ちた。私は直ぐにそれを摘《つま》んで白菜《パイサイ》の畑のなかに投げ込んだ。そうして、ほっ[#「ほっ」に傍点]としたように見あげると、今朝の空も紺青に高く晴れていた。
もう一つの思い出は、右の奥の上歯一枚である。
大正八年八月、
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