戸時代の文豪にくらべれば、私などはまだ仕合せの方であるかも知れないと、心ひそかに慰めるの外はない。殊《こと》に江戸時代と違って、歯科の技術も大いに進歩している今日に生れ合せたのは、更に仕合せであると思わなければならない。それにしても、前にいう通り、一種寂寥の感は消えない。
 私をさんざん苦めた後に、だんだんに私を見捨てて行く上歯と下歯の数々、その脱落の歴史については、また数々の思い出がある。それを一々語ってもいられず、聞いてくれる人もあるまいが、そのなかで最も深く私の記憶に残っているのは、奥歯の上一枚と下一枚の抜け落ちた時である。いずれも右であった。
 北支事変の風雲急なる折柄、殊にその記憶がまざまざと甦《よみがえ》って来るのである。

 明治三十七年、日露戦争の当時、わたしは従軍新聞記者として満洲の戦地へ派遣されていた。遼陽陥落の後、私たちの一行六人は北門外の大紙房《ターシーファン》という村に移って、劉という家の一室に止宿《ししゅく》していたが、一室といっても別棟の広い建物で、満洲普通の農家ではあるが、比較的清浄に出来ているので、私たちは喜んでそこに一月ほどを送った。
 先年の震災で当時の陣中日記を焼失してしまったので、正確にその日をいい得ないが、なんでも九月の二十日前後とおぼえている。四十歳ぐらいの主人がにこにこ[#「にこにこ」に傍点]しながら這入《はい》って来て、今夜は中秋であるから皆さんを招待したいという。私たちは勿論承知して、今夜の宴に招かれることになった。
 山中ばかりでなく、陣中にも暦日がない。まして陰暦の中秋などは我々の関知する所でなかったが、二、三日前から宿の雇人らが遼陽城内へしばしば買物に出てゆく。それが中秋の月を祭る用意であることを知って、もう十五夜が来るのかと私たちも初めて気がついた。それがいよいよ今夜となって、私たちはその御馳走に呼ばれたのである。ここの家は家族五人のほかに雇人六人も使っていて、先《ま》ず相当の農家であるらしいので、今夜は定めて御馳走があるだろうなどと、私たちはすこぶる嬉しがって、日の暮れるのを待ち構えていた。
 きょうは朝から快晴で、満洲の空は高く澄んでいる。まことに申分のない中秋である。午後六時を過ぎた頃に、明月が東の空に大きく昇った。ここらの月は銀色でなく、銅色である。それは大陸の空気が澄んでいるためであると説明する人
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