、本来ならばお互いにもう見忘れている時分だが、彼女にはきのうの朝も会っているので、双方同時に挨拶したわけだ。
「昨晩は父が出まして、いろいろ御馳走にあずかりましたそうで、有難うございました。」と、辰子は丁寧に礼を言った。
「いや、かえって御迷惑でしたろう。どうぞよろしく仰しゃって下さい。」
挨拶はそれぎりで別れてしまった。辰子は村の方へ降りていく。僕はこれから登っていく。いわば双方すれ違いの挨拶に過ぎないのであったが、別れてから僕はふと考えた。あの辰子という女はなんのためにこんな所へ出て来たのか。たとい昼間にしても、町に住む人間、ことに女などに取っては用のありそうな場所ではない。あるいは世間の評判が高いので、明神跡でも窺いに来たのかとも思われるが、それならば若い女がただひとりで来そうもない。もっともこの頃の女はなかなか大胆になっているから、その啼声でも探険するつもりで、昼のうちにその場所を見定めに来たのかも知れない。そんなことをいろいろに考えながら、さらに林の奥ふかく進んで行くと、明神跡は昔よりもいっそう荒れ果てて、このごろの夏草がかなりに高く乱れているので、僕にはもう確かな見当も付
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