「夜啼石伝説とかいうのがあるというじゃないか。ここらのもそれから考え付いたのだろうよ。」
僕の兄弟だけに、兄もこんな問題には全然無趣味であるらしく、話はそれぎりで消えてしまった。しかしその日は雨もやんで、午頃《ひるごろ》からは青い空の色がところどころに洩れて来たので、僕は午後からふらりと家《うち》を出た。ゆうべはかの法事で、夜のふけるまで働かされたのと、いくら無頓着の僕でも幾分か気疲れがしたのとで、なんだか頭が少し重いように思われたので、なんというあてもなしに雨あがりの路をあるくことになったのだ。僕の郷里は田舎にしては珍しく路のいいところだ。まあ、その位がせめてもの取得《とりえ》だろう。
すこし月並《つきなみ》になるが、子供のときに遊んだことのある森や流れや、そういう昔なじみの風景に接すると、さすがの僕も多少の思い出がないでもない。僕の卒業した小学校がいつの間にか建て換えられて、よほど立派な建物になっているのも眼についた。町の方へ行こうか、岡の方へ行こうかと、途中で立ちどまって思案しているうちに、ふと思いついたのは、かの小袋ヶ岡の一件だ。そこがどんな所であるかは勿論知っているが、近頃そんな問題を引起すについては、土地の様子がどんなに変っているかという事を知りたくもなったので、ついふらふらとその方面へ足を向けることになった。こうなると、僕もやはり一種の好奇心に駆《か》られていることは否《いな》まれないようだ。
うしろの方には小高い岡がいくつも続いているが、問題の小袋ヶ岡は前にもいった通りのわけで、ほとんど平地といってもいいくらいだ。栗の林は依然として茂っている。やがて梅雨になれば、その花が一面にこぼれることを想像しながら、やや爪先《つまさき》あがりの細い路をたどって行くと、林のあいだから一人の若い女のすがたが現われた。だんだん近寄ると、相手は僕の顔をみて少し驚いたように挨拶した。
女は町の肥料商――ゆうべこの小袋ヶ岡の一件を言い出したあの山木という人の娘で、八年前に見た時にはまだ小学校へ通っていたらしかったが、高松あたりの女学校を去年卒業して、ことしはもう二十歳《はたち》になるとか聞いていた。どちらかといえば大柄の、色の白い、眉の形のいい、別に取立てていうほどの容貌《きりょう》ではないが、こちらでは十人並として立派に通用する女で、名はお辰、当世風にいえば辰子で、本来ならばお互いにもう見忘れている時分だが、彼女にはきのうの朝も会っているので、双方同時に挨拶したわけだ。
「昨晩は父が出まして、いろいろ御馳走にあずかりましたそうで、有難うございました。」と、辰子は丁寧に礼を言った。
「いや、かえって御迷惑でしたろう。どうぞよろしく仰しゃって下さい。」
挨拶はそれぎりで別れてしまった。辰子は村の方へ降りていく。僕はこれから登っていく。いわば双方すれ違いの挨拶に過ぎないのであったが、別れてから僕はふと考えた。あの辰子という女はなんのためにこんな所へ出て来たのか。たとい昼間にしても、町に住む人間、ことに女などに取っては用のありそうな場所ではない。あるいは世間の評判が高いので、明神跡でも窺いに来たのかとも思われるが、それならば若い女がただひとりで来そうもない。もっともこの頃の女はなかなか大胆になっているから、その啼声でも探険するつもりで、昼のうちにその場所を見定めに来たのかも知れない。そんなことをいろいろに考えながら、さらに林の奥ふかく進んで行くと、明神跡は昔よりもいっそう荒れ果てて、このごろの夏草がかなりに高く乱れているので、僕にはもう確かな見当も付かなくなってしまった。
それでも例の問題が起ってから、わざわざ踏み込んでくる人も多いとみえて、そこにもここにも草の葉が踏みにじられている。その足跡をたよりにしてどうにかこうにか辿り着くと、ようように土台石らしい大きい石を一つ見いだした。そこらはまだほかにも大きい石が転がっている。中には土の中へ沈んだように埋まっているのもある。こんなのが夜啼石の目標になるのだろうかと僕は思った。
あたりは実に荒涼寂寞だ。鳥の声さえも聞えない。こんなところで夜ふけに怪しい啼声を聞かされたら、誰でも余りいい心持はしないかも知れないと、僕はまた思った。その途端にうしろの草叢《くさむら》をがさがさと踏み分けてくる人がある。ふり向いてみると、年のころは二十八九、まだ三十にはなるまいと思われる痩形の男で、縞の洋服を着てステッキを持っていた。お互いは見識らない人ではあるが、こういう場所で双方が顔をあわせれば、なんとか言いたくなるのが人情だ。僕の方からまず声をかけた。
「随分ここらは荒れましたな。」
「どうもひどい有様です。おまけに雨あがりですから、この通りです。」と、男は自分のズボンを指《ゆび》さすと、膝から下は
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