こへ投げ込まれてしまった。二人が帰ったあとで、女房は小声で言った。
「おまえさんがつまらない冗談をいったから悪いんだよ。」
源兵衛はなんにも答えなかった。
四
あくる朝、源兵衛は谷のほとりへ行ってみると、黒ん坊の死骸は目の下にかかっていた。二丈余りの下には松の大木が枝を突き出していた。死骸はあたかもその上に投げ落されたのである。勿論、谷底へ投げ込むつもりであったが、ゆう闇のために見当がちがって、死骸は中途にかかっていることを今朝になって発見したのである。二丈あまりではあるが、そこは足がかりもない断崖で、下は目もくらむほどの深い谷であるから、その死骸には手を着けることが出来なかった。
「畜生……。」と、源兵衛は舌打ちした。お兼もお杉も覗きに来て、互いにいやな顔をしていた。
それはまずそれとして、さらにこの一家の心を暗くしたのは、かの縁談の一条であった。黒ん坊のことが杣仲間の口から世間にひろまると、婿の方では二の足を蹈《ふ》むようになった。源兵衛が黒ん坊にむかって冗談の約束をしたことなどは誰も知らないのであるが、なにしろ黒ん坊のような怪物に魅《みこ》まれた女と同棲するのは不安であった。その執念がどんな祟《たた》りをなさないとも限らない。又その同類に付け狙われて、どんな仕返しをされないとも限らない。婿自身ばかりでなく、その両親や親類たちも同じような不安にとらわれて、結納までも済ませた婚礼を何のかのと言い延ばしているうちに、黒ん坊の噂はそれからそれへと伝わったので、婿の家でもいよいよ忌気《いやき》がさして、その年の盂蘭盆《うらぼん》前に断然破談ということになってしまった。
さてその黒ん坊の死骸はどうなったかというと、むろん日を経るにしたがって、その肉は腐れただれて行った。毛の生えている皮膚も他の獣《けもの》の皮とは違っているとみえて、鴉《からす》や他の鳥類についばまれた跡が次第に破れて腐れて、今はほとんど骨ばかりとなった。その骸骨も風にあおられ、雨に打たれて、ばらばらにくずれ落ちてしまったが、ただひとつ残っているのはその首の骨である。不思議といおうか、偶然といおうか、さきに木の上に投げ落されたときに、その片目を大きい枝の折れて尖っているところに貫かれたので、そればかりは骨となっても元のところにかかっているのであった。
自分の家の前であるから、その死骸
前へ
次へ
全18ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング