して、何か心当りの事でもないか、その以前に邸内で変死した者でもあるかと吟味したが、何《いず》れも顔を見合せるばかりで返答《こたえ》がない。しかしその女が湿《ぬれ》しおたれて居ると云うのを見れば、或は水死した者ではあるまいか、とてもの事に池を探して見ろと隼人が云う。
 何さま斯《こ》の邸には大きな池があって、水の淀んで碧黒い処《ところ》には水草が一面に漂っていて、夏になれば蛇や蛙|宮守《やもり》[#「宮守」はママ]の棲家となる、殊《こと》にこの池は中々底深いと聞くから、或はこの水中に何物か沈んでいるのではあるまいか、物は試しで一応その掻堀《かいぼり》をして見ろと云うことになって、下男や家来共はその用意に取かかる処《ところ》へ、この噂を聞いて奥から怖々《おずおず》出て来たのは、当年八十歳の女隠居で、当主隼人の祖母に当る人だ。見ると、手には珠数を爪繰って、口には何か念仏を唱えている。
 この隠居が椽端《えんばた》近く歩み出て、今や掻堀を面白半分に騒ぎ立つ家来共を制して、もうもうそれには及びませぬ、縡《こと》の仔細は妾《わし》が能《よ》う知っていますと云うから、一同も不思議に思ってその顔を見つめていると、隠居は思わず大息ついて、アア悪い事は出来ぬもの、成ほど住も迷って来ましょう思えば怖しい事、南無阿弥陀仏と念じながら、ここに語り出す懺悔噺を聴くと、当主の祖父が未だ在世の頃、手廻りの侍女《こしもと》にお住と云う眉目妍《みめよ》い女があって、是に主人が手をつけて何日《いつ》かお住は懐妊の様子、これをその奥様即ちこの隠居が悟って、お定まりの嫉妬から或日の事、主人の殿が不在《るす》を幸いに、右のお住を庭前へ引据えて散々に折檻し、その半死半生になったのをそのままに捨て置いた。で、お住は苦しいと口惜《くやし》いに心も乱れたと見えて、いつかその池の畔《ほとり》へ這寄って、水底深く沈んで了《しま》ったとは、如何にも無惨極まる次第で、その時代の事であるから何事も内分に済せて、死骸は親|許《もと》へ引渡し、それで無雑作に埒が明いた、しかしその後に別に怪しい事もなく、その主人は已に世を去り、その息子も世を去って、当主隼人の代になった、その間|恰《あたか》も五十年を経過しているから、その頃の奉公人なども或は死し、或は暇を取って、当時は誰もこれを知る者もなく、現に当主の隼人すらも一向に知らぬ位、随《したが》って他から縁付いた江原の妹やましてその小児などが夢にも知ろう筈はなく、又曾てそんな事があったろうと偶然に思い付く道理もない。知っていればこそ心の迷いも起れ、知らぬ者の眼に怪しい影の映ろう筈がなく、ましてその小児がお住の名を知って居ろう筈がない、シテ見れば正しくお住その者の幽魂が迷って出たに相違ない。数うれば当年《ことし》は恰もその五十回忌に相当すると、隠居は懺愧と恐怖に顔色を変えて了った。
 隠居一人が胸に秘めて、五十年来誰にも洩さなかった秘密が、ここに初めて露見したので、孫の隼人を初め江原も縡《こと》の不思議に驚いて、この上は唯|一図《いちず》に嘘だとか馬鹿馬鹿しいとか云《いい》消して了う訳には往かぬ。殊に当年が五十回忌に相当するというもいよいよ不思議と、何れも奇異の感に打れて、兎も角もそのお住の得脱《とくだつ》成仏《じょうぶつ》するように、仏事供養を営むが可かろうという事に一決して、一同その墓所へ参詣し、懇切《ねんごろ》に回向した。で、その幽魂が果して成仏したかどうか知らぬが、その後は何の不思議もなく、妹も旧の如くその邸へ戻って夫婦睦じく暮したという。
 私も武士、且《かつ》は青表紙の一冊も読んだ者、世に幽霊や妖怪変化があろうとは、どうしても信じられぬが、この一条ばかりは何分にも合点が往かぬ。その亭主も知らず、まして当人は夢にも知らぬ女の姿がありありと眼に映り、しかも小児までがその名を知っていると云うのは、どういう情由《わけ》であろう。実に世には理外の理というものが有るものだと、右の江原が折々に人に語って生涯その疑惑《うたがい》が解《とけ》なかったとの事。
[#地付き](『文藝倶楽部』02[#「02」は縦中横]年4月号)
[#地付き]*不通庵〈妖怪談〉より。筆名は「狂生」使用。



底本:「文藝別冊[総特集]岡本綺堂」河出書房新社
   2004(平成16)年1月30日発行
初出:「文藝倶楽部」
   1902(明治35)年4月号
入力:hongming
校正:noriko saito
2004年8月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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