じろく見え煙の影は夢のやうにかけたのです。唐檜《たうひ》やとゞ松がまつ黒に立つてちらちら窓を過ぎて行きます。じつと外を見てゐる若者の唇《くちびる》は笑ふやうに又泣くやうにかすかにうごきました。それは何か月に話し掛けてゐるかとも思はれたのです。みんなもしんとして何か考へ込んでゐました。まん中の立派な紳士もまた鉄砲を手に持つて何か考へてゐます。けれども俄《にはか》に紳士は立ちあがりました。鉄砲を大切に棚《たな》に載せました。それから大きな声で向ふの役人らしい葉巻をくはへてゐる紳士に話し掛けました。
『何せ向ふは寒いだらうね。』
向ふの紳士が答へました。
『いや、それはもう当然です。いくら寒いと云つてもこつちのは相対的ですがなあ、あつちはもう絶対です。寒さがちがひます。』
『あなたは何べん行つたね。』
『私は今度二遍目ですが。』
『どうだらう、わしの防寒の設備は大丈夫だらうか。』
『どれ位ご支度なさいました。』
『さあ、まあイーハトヴの冬の着物の上に、ラツコ裏の内外套《うちぐわいたう》ね、海狸《びばあ》の中外套ね、黒狐《くろぎつね》表裏の外外套ね。』
『大丈夫でせう、ずゐぶんいゝお支度です。』
『さうだらうか、それから北極兄弟商会パテントの緩慢燃焼外套ね………。』
『大丈夫です』
『それから氷河鼠《ひようがねずみ》の頸《くび》のとこの毛皮だけでこさへた上着ね。』
『大丈夫です。しかし氷河鼠の頸のとこの毛皮はぜい沢ですな。』
『四百五十|疋《ぴき》分だ。どうだらう。こんなことで大丈夫だらうか。』
『大丈夫です。』
『わしはね、主に黒狐をとつて来るつもりなんだ。黒狐の毛皮九百枚持つて来てみせるといふかけをしたんだ。』
『さうですか。えらいですな。』
『どうだ。祝盃《しゆくはい》を一杯やらうか。』紳士はステームでだんだん暖まつて来たらしく外套を脱ぎながらウヱスキーの瓶《びん》を出しました。
すぢ向ひではさつきの青年が額をつめたいガラスにあてるばかりにして月とオリオンとの空をじつとながめ、向ふ隅《すみ》ではあの痩《やせ》た赤髯《あかひげ》の男が眼をきよろきよろさせてみんなの話を聞きすまし、酒を呑《の》み出した紳士のまはりの人たちは少し羨《うらや》ましさうにこの豪勢な北極近くまで猟に出かける暢気《のんき》な大将を見てゐました。
×
毛皮外套をあんまり沢山もつた紳士はもうひとりの外套を沢山もつた紳士と喧嘩《けんくわ》をしましたがそのあとの方の人はたうとう負て寝たふりをしてしまひました。
紳士はそこでつゞけさまにウヰスキーの小さなコツプを十二ばかりやりましたらすつかり酔ひがまはつてもう目を細くして唇《くちびる》をなめながらそこら中の人に見あたり次第くだを巻きはじめました。
『ね、おい、氷河鼠の頸のところの毛皮だけだぜ。えゝ、氷河鼠の上等さ。君、君、百十六疋の分なんだ。君、君|斯《か》う見渡すといふと外套二枚ぐらゐのお方もずゐぶんあるやうだが外套二枚ぢやだめだねえ、君は三枚だからいいね、けれども、君、君、君のその外套《ぐわいたう》は全体それは毛ぢやないよ。君はさつきモロツコ狐《ぎつね》だとか云《い》つたねえ。どうしてどうしてちやんとわかるよ。それはほんとの毛ぢやないよ。ほんとの毛皮ぢやないんだよ』
『失敬なことを云ふな。失敬な』
『いゝや、ほんとのことを云ふがね、たしかにそれはにせものだ。絹糸で拵《こしら》へたんだ』
『失敬なやつだ。君はそれでも紳士かい』
『いゝよ。僕は紳士でもせり売屋でも何でもいゝ。君のその毛皮はにせものだ』
『野蕃《やばん》なやつだ。実に野蕃だ』
『いゝよ。おこるなよ向ふへ行つて寒かつたら僕のとこへおいで』
『頼まない』
よその紳士はすつかりぶり/\してそれでもきまり悪さうにやはりうつ/\寝たふりをしました。
氷河鼠《ひようがねずみ》の上着を有《も》つた大将は唇《くちびる》をなめながらまはりを見まはした。
『君、おい君、その窓のところのお若いの。失敬だが君は船乗りかね』
若者はやつぱり外を見てゐました。月の下にはまつ白な蛋白石《たんぱくせき》のやうな雲の塊が走つて来るのです。
『おい、君、何と云つても向ふは寒い、その帆布一枚ぢやとてもやり切れたもんぢやない。けれども君はなか/\豪儀なとこがある。よろしい貸てやらう。僕のを一枚貸てやらう。さうしよう』
けれども若者はそんな言《げん》が耳にも入らないといふやうでした。つめたく唇を結んでまるでオリオン座のとこの鋼いろの空の向ふを見透かすやうな眼をして外を見てゐました。
『ふん。バースレーかね。黒狐だよ。なかなか寒いからね、おい、君若いお方、失敬だが外套を一枚お貸申すとしようぢやないか。黄いろの帆布一枚ぢやどうしてどうして零下の四十度を防ぐもなにもでき
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