拶しました。
「いや、お早う、ひどい風だね。」白猫も忙がしさうに仕事にかかりました。その時かま[#「かま」に傍点]猫は力なく立つてだまつておじぎをしましたが、白猫はまるで知らないふりをしてゐます。
 ガタン、ピシヤリ。
「ふう、ずゐぶんひどい風だね。」事務長の黒猫が入つて来ました。
「お早うございます。」三人はすばやく立つておじぎをしました。かま[#「かま」に傍点]猫もぼんやり立つて、下を向いたまゝおじぎをしました。
「まるで暴風だね、えゝ。」黒猫は、かま[#「かま」に傍点]猫を見ないで斯《か》う言ひながら、もうすぐ仕事をはじめました。
「さあ、今日は昨日のつづきのアンモニアツクの兄弟を調べて回答しなければならん。二番書記、アンモニアツク兄弟の中で、南極へ行つたのは誰《たれ》だ。」仕事がはじまりました。かま[#「かま」に傍点]猫はだまつてうつむいてゐました。原簿がないのです。それを何とか云ひたくつても、もう声が出ませんでした。
「パン、ポラリスであります。」虎猫が答へました。
「よろしい、パン、ポラリスを詳述せよ。」と黒猫が云ひます。ああ、これはぼくの仕事だ、原簿、原簿、とかま[#「かま」に傍点]猫はまるで泣くやうに思ひました。
「パン、ポラリス、南極探険の帰途、ヤツプ島沖にて死亡、遺骸《ゐがい》は水葬せらる。」一番書記の白猫が、かま[#「かま」に傍点]猫の原簿で読んでゐます。かま[#「かま」に傍点]猫はもうかなしくて、かなしくて頬《ほほ》のあたりが酸つぱくなり、そこらがきいんと鳴つたりするのをじつとこらへてうつむいて居《を》りました。
 事務所の中は、だんだん忙しく湯の様になつて、仕事はずんずん進みました。みんな、ほんの時々、ちらつとこつちを見るだけで、たゞ一ことも云ひません。
 そしておひるになりました。かま[#「かま」に傍点]猫は、持つて来た弁当も喰べず、じつと膝《ひざ》に手を置いてうつむいて居りました。
 たうとうひるすぎの一時から、かま[#「かま」に傍点]猫はしくしく泣きはじめました。そして晩方まで三時間ほど泣いたりやめたりまた泣きだしたりしたのです。
 それでもみんなはそんなこと、一向知らないといふやうに面白さうに仕事をしてゐました。
 その時です。猫どもは気が付きませんでしたが、事務長のうしろの窓の向ふにいかめしい獅子《しし》の金いろの頭が見えました。
 獅子は不審さうに、しばらく中を見てゐましたが、いきなり戸口を叩《たた》いてはひつて来ました。猫どもの愕《おど》ろきやうといつたらありません。うろうろうろうろそこらをあるきまはるだけです。かま[#「かま」に傍点]猫だけが泣くのをやめて、まつすぐに立ちました。
 獅子が大きなしつかりした声で云ひました。
「お前たちは何をしてゐるか。そんなことで地理も歴史も要《い》つたはなしでない。やめてしまへ。えい。解散を命ずる」
 かうして事務所は廃止になりました。
 ぼくは半分獅子に同感です。



底本:「宮沢賢治全集8」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年1月28日第1刷発行
   1996(平成8)年5月15日第14刷発行
底本の親本:「新修宮沢賢治全集 第十三巻」筑摩書房
   1980(昭和55)年3月15日初版第1刷発行
入力:細川みづ穂
校正:瀬戸さえ子
1999年3月8日公開
2008年10月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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