ことは夢《ゆめ》にもおれの考えるべきことじゃない、けれどもそのおれというものは何だ結局狐にも劣《おと》ったもんじゃないか、一体おれはどうすればいいのだ、土神は胸をかきむしるようにしてもだえました。
「いつかの望遠鏡まだ来ないんですの。」樺の木がまた言いました。
「ええ、いつかの望遠鏡ですか。まだ来ないんです。なかなか来ないです。欧州《おうしゅう》航路は大分混乱してますからね。来たらすぐ持って来てお目にかけますよ。土星の環《わ》なんかそれぁ美しいんですからね。」
土神は俄に両手で耳を押《おさ》えて一目散に北の方へ走りました。だまっていたら自分が何をするかわからないのが恐《おそ》ろしくなったのです。
まるで一目散に走って行きました。息がつづかなくなってばったり倒《たお》れたところは三つ森山の麓《ふもと》でした。
土神は頭の毛をかきむしりながら草をころげまわりました。それから大声で泣きました。その声は時でもない雷《かみなり》のように空へ行って野原中へ聞えたのです。土神は泣いて泣いて疲《つか》れてあけ方ぼんやり自分の祠に戻《もど》りました。
(五)[#「(五)」は縦中横]
そのうちとうとう秋になりました。樺《かば》の木はまだまっ青でしたがその辺のいのころぐさはもうすっかり黄金《きん》いろの穂《ほ》を出して風に光りところどころすずらんの実も赤く熟しました。
あるすきとおるように黄金《きん》いろの秋の日土神は大へん上機嫌《じょうきげん》でした。今年の夏からのいろいろなつらい思いが何だかぼうっとみんな立派なもやのようなものに変って頭の上に環になってかかったように思いました。そしてもうあの不思議に意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐《きつね》と話したいなら話すがいい、両方ともうれしくてはなすのならほんとうにいいことなんだ、今日はそのことを樺の木に云ってやろうと思いながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行きました。
樺の木は遠くからそれを見ていました。
そしてやっぱり心配そうにぶるぶるふるえて待ちました。
土神は進んで行って気軽に挨拶《あいさつ》しました。
「樺の木さん。お早う。実にいい天気だな。」
「お早うございます。いいお天気でございます。」
「天道《てんとう》というものはありがたいもんだ。春は赤く夏は白く秋は黄いろく、秋が黄いろになると葡萄《ぶどう》は紫《むらさき》になる。実にありがたいもんだ。」
「全くでございます。」
「わしはな、今日は大へんに気ぶんがいいんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝《けさ》からにわかに心持ちが軽くなった。」
樺の木は返事しようとしましたがなぜかそれが非常に重苦しいことのように思われて返事しかねました。
「わしはいまなら誰《たれ》のためにでも命をやる。みみずが死ななけぁならんならそれにもわしはかわってやっていいのだ。」土神は遠くの青いそらを見て云いました。その眼も黒く立派でした。
樺の木は又何とか返事しようとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわずか吐息《といき》をつくばかりでした。
そのときです。狐がやって来たのです。
狐は土神の居るのを見るとはっと顔いろを変えました。けれども戻るわけにも行かず少しふるえながら樺の木の前に進んで来ました。
「樺の木さん、お早う、そちらに居られるのは土神ですね。」狐は赤革《あかがわ》の靴《くつ》をはき茶いろのレーンコートを着てまだ夏帽子《なつぼうし》をかぶりながら斯《こ》う云いました。
「わしは土神だ。いい天気だ。な。」土神はほんとうに明るい心持で斯う言いました。狐は嫉《ねた》ましさに顔を青くしながら樺の木に言いました。
「お客さまのお出《い》での所にあがって失礼いたしました。これはこの間お約束《やくそく》した本です。それから望遠鏡はいつかはれた晩にお目にかけます。さよなら。」
「まあ、ありがとうございます。」と樺の木が言っているうちに狐はもう土神に挨拶もしないでさっさと戻りはじめました。樺の木はさっと青くなってまた小さくぷりぷり顫《ふる》いました。
土神はしばらくの間ただぼんやりと狐を見送って立っていましたがふと狐の赤革の靴のキラッと草に光るのにびっくりして我に返ったと思いましたら俄《にわ》かに頭がぐらっとしました。狐がいかにも意地をはったように肩《かた》をいからせてぐんぐん向うへ歩いているのです。土神はむらむらっと怒《おこ》りました。顔も物凄《ものすご》くまっ黒に変ったのです。美学の本だの望遠鏡だのと、畜生《ちくしょう》、さあ、どうするか見ろ、といきなり狐のあとを追いかけました。樺の木はあわてて枝《えだ》が一ぺんにがたがたふるえ、狐もそのけはいにどうかしたのかと思って何気なくうしろを見ましたら土
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