葡萄《ぶどう》は紫《むらさき》になる。実にありがたいもんだ。」
「全くでございます。」
「わしはな、今日は大へんに気ぶんがいいんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝《けさ》からにわかに心持ちが軽くなった。」
 樺の木は返事しようとしましたがなぜかそれが非常に重苦しいことのように思われて返事しかねました。
「わしはいまなら誰《たれ》のためにでも命をやる。みみずが死ななけぁならんならそれにもわしはかわってやっていいのだ。」土神は遠くの青いそらを見て云いました。その眼も黒く立派でした。
 樺の木は又何とか返事しようとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわずか吐息《といき》をつくばかりでした。
 そのときです。狐がやって来たのです。
 狐は土神の居るのを見るとはっと顔いろを変えました。けれども戻るわけにも行かず少しふるえながら樺の木の前に進んで来ました。
「樺の木さん、お早う、そちらに居られるのは土神ですね。」狐は赤革《あかがわ》の靴《くつ》をはき茶いろのレーンコートを着てまだ夏帽子《なつぼうし》をかぶりながら斯《こ》う云いました。
「わしは土神だ。いい天気だ。な。」土神はほんとうに明るい心持で斯う言いました。狐は嫉《ねた》ましさに顔を青くしながら樺の木に言いました。
「お客さまのお出《い》での所にあがって失礼いたしました。これはこの間お約束《やくそく》した本です。それから望遠鏡はいつかはれた晩にお目にかけます。さよなら。」
「まあ、ありがとうございます。」と樺の木が言っているうちに狐はもう土神に挨拶もしないでさっさと戻りはじめました。樺の木はさっと青くなってまた小さくぷりぷり顫《ふる》いました。
 土神はしばらくの間ただぼんやりと狐を見送って立っていましたがふと狐の赤革の靴のキラッと草に光るのにびっくりして我に返ったと思いましたら俄《にわ》かに頭がぐらっとしました。狐がいかにも意地をはったように肩《かた》をいからせてぐんぐん向うへ歩いているのです。土神はむらむらっと怒《おこ》りました。顔も物凄《ものすご》くまっ黒に変ったのです。美学の本だの望遠鏡だのと、畜生《ちくしょう》、さあ、どうするか見ろ、といきなり狐のあとを追いかけました。樺の木はあわてて枝《えだ》が一ぺんにがたがたふるえ、狐もそのけはいにどうかしたのかと思って何気なくうしろを見ましたら土
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