章というて、誰《たれ》も存知の有り難《がた》いお経の中の一とこじゃ。ただ今から、暫時《しばし》の間、そのご文の講釈を致《いた》す。みなの衆、ようく心を留《と》めて聞かしゃれ。折角《せっかく》鳥に生れて来ても、ただ腹が空《す》いた、取って食う、睡《ねむ》くなった、巣に入るではなんの所詮《しょせん》もないことじゃぞよ。それも鳥に生れてただやすやすと生きるというても、まことはただの一日とても、ただごとではないのぞよ、こちらが一日生きるには、雀《すずめ》やつぐみや、たにしやみみずが、十や二十も殺されねばならぬ、ただ今のご文にあらしゃるとおりじゃ。ここの道理をよく聴《き》きわけて、必らずうかうか短い一生をあだにすごすではないぞよ。これからご文に入るじゃ。子供らも、こらえて睡るではないぞ。よしか。」
林の中は又しいんとなりました。さっきの汽車が、まだ遠くの遠くの方で鳴っています。
「爾《そ》の時に疾翔大力《しっしょうたいりき》、爾迦夷《るかい》に告げて曰《いわ》くと、まづ疾翔大力とは、いかなるお方じゃか、それを話さなければならんじゃ。
疾翔大力と申しあげるは、施身大菩薩《せしんだいぼさつ》のことじゃ。もと鳥の中から菩提心《ぼだいしん》を発して、発願《ほつがん》した大力の菩薩じゃ。疾翔とは早く飛ぶということじゃ。捨身《しゃしん》菩薩がもとの鳥の形に身をなして、空をお飛びになるときは、一揚《いちよう》というて、一はばたきに、六千|由旬《ゆじゅん》を行きなさる。そのいわれより疾翔と申さるる、大力というは、お徳によって、たとえ火の中水の中、ただこの菩薩を念ずるものは、捨身大菩薩、必らず飛び込《こ》んで、お救いになり、その浄明《じょうみょう》の天上にお連れなさる、その時火に入って身の毛一つも傷《きずつ》かず、水に潜《くぐ》って、羽、塵《ちり》ほどもぬれぬという、そのお徳をば、大力とこう申しあげるのじゃ。されば疾翔大力とは、捨身大菩薩を、鳥より申しあげる別号じゃ、まあそう申しては失礼なれど、鳥より仰《あお》ぎ奉《たてまつ》る一つのあだ名じゃと、斯《こ》う考えてよろしかろう。」
声がしばらくとぎれました。林はしいんとなりました。ただ下の北上川の淵《ふち》で、鱒《ます》か何かのはねる音が、バチャンと聞えただけでした。
梟の、きっと大僧正《だいそうじょう》か僧正でしょう、坊《ぼう》さんの講義が又はじまりました。
「さらば疾翔大力は、いかなればとて、われわれ同様|賤《いや》しい鳥の身分より、その様なる結構のお身となられたか。結構のことじゃ。ご自分も又ほかの一切のものも、本願のごとくにお救いなされることなのじゃ。さほど尊いご身分にいかなことでなられたかとなれば、なかなか容易のことではあらぬぞよ。疾翔大力さまはもとは一疋の雀でござらしゃったのじゃ。南天竺《なんてんじく》の、ある家《や》の棟《むね》に棲《す》まわれた。ある年非常な饑饉《ききん》が来て、米もとれねば木の実もならず、草さえ枯《か》れたことがござった。鳥もけものも、みな飢《う》え死にじゃ人もばたばた倒《たお》れたじゃ。もう炎天《えんてん》と飢渇《きかつ》の為《ため》に人にも鳥にも、親兄弟の見さかいなく、この世からなる餓鬼道《がきどう》じゃ。その時疾翔大力は、まだ力ない雀でござらしゃったなれど、つくづくこれをご覧じて、世の浅間《あさま》しさはかなさに、泪《なみだ》をながしていらしゃれた。中にもその家の親子二人、子はまだ六つになるならず、母親とてもその大飢渇に、どこから食《じき》を得るでなし、もうあすあすに二人もろとも見す見す餓死を待ったのじゃ。この時、疾翔大力は、上よりこれをながめられあまりのことにしばしは途方《とほう》にくれなされたが、日ごろの恩を報ずるは、ただこの時と勇みたち、つかれた羽をうちのばし、はるか遠くの林まで、親子の食《じき》をたずねたげな。一念天に届《とど》いたか、ある大林のその中に、名さえも知らぬ木なれども、色もにおいもいと高き、十の木の実をお見附《みつ》けなされたじゃ。さればもはや疾翔大力は、われを忘れて、十たびその実をおのがあるじの棟《むね》に運び、親子の上より落されたじゃ。その十たび目は、あまりの飢えと身にあまる、その実の重さにまなこもくらみ、五たび土に落ちたれど、ただ報恩の一念に、ついご自分にはその実を啄《ついば》みなさらなんだ、おもいとどいてその十番目の実を、無事に親子に届けたとき、あまりの疲《つか》れと張りつめた心のゆるみに、ついそのままにお倒れなされたじゃ。されどもややあって正気に復し下の模様を見てあれば、いかにもその子は勢《せい》も増し、ただいたけなく悦《よろこ》んでいる如《ごと》くなれども、親はかの実も自らは口にせなんじゃ、いよいよ餓《う》えて倒れるようす、疾翔
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