ゐるとか、そんなやうな事情から、ふっとその引力を感じないといふやうなことはあるかもしれない。しかしとにかく行って来よう。二週間目にはきっと帰るから。」
「それでは何分お願ひいたします。これはまことに軽少ですが、当座の旅費のつもりです。」
貝の火兄弟商会の、
鼻の赤いその支配人は、
ねずみ色の状袋を、
上着の内衣嚢《うちポケット》から出した。
「さうかね。」
大学士は別段気にもとめず、
手を延ばして状袋をさらひ、
自分の衣嚢《かくし》に投げこんだ。
「では何分とも、よろしくお願ひいたします。」
そして「貝の火|兄弟《けいてい》商会」の、
赤鼻の支配人は帰って行った。
次の日諸君のうちの誰《たれ》かは、
きっと上野の停車場で、
途方もない長い外套《ぐゎいたう》を着、
変な灰色の袋のやうな背嚢《はいなう》をしょひ、
七キログラムもありさうな、
素敵な大きなかなづちを、
持った紳士を見ただらう。
それは楢《なら》の木大学士だ。
宝石を探しに出掛けたのだ。
出掛けた為《ため》にたうとう楢ノ木大学士の、
野宿といふことも起ったのだ。
三晩といふもの起ったのだ。
野宿第一夜
四月二十日の午后四時|頃《ころ》、
例の楢ノ木大学士が
「ふん、此《こ》の川筋があやしいぞ。たしかにこの川筋があやしいぞ」
とひとりぶつぶつ言ひながら、
からだを深く折り曲げて
眼《め》一杯にみひらいて、
足もとの砂利をねめまはしながら、
兎《うさぎ》のやうにひょいひょいと、
葛丸《くずまる》川の西岸の
大きな河原をのぼって行った。
両側はずゐぶん嶮《けは》しい山だ。
大学士はどこまでも溯《のぼ》って行く。
けれどもたうとう日も落ちた。
その両側の山どもは、
一生懸命の大学士などにはお構ひなく
ずんずん黒く暮れて行く。
その上にちょっと顔を出した
遠くの雪の山脈は、
さびしい銀いろに光り、
てのひらの形の黒い雲が、
その上を行ったり来たりする。
それから川岸の細い野原に、
ちょろちょろ赤い野火が這《は》ひ、
鷹《たか》によく似た白い鳥が、
鋭く風を切って翔《か》けた。
楢《なら》ノ木大学士はそんなことには構はない。
まだどこまでも川を溯って行かうとする。
ところがたうとう夜になった。
今はもう河原の石ころも、
赤やら黒やらわからない。
「これはいけない。もう夜だ。寝なくちゃなるまい。今夜はずゐぶん久し
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