しろを向いて、フラスコを持ったまゝ向ふへ行ってしまひました。紳士は
「弱ったなあ、あしたは僕は陸軍の獣医たちと大事な交際があるんだ。こんなことになっちゃ、まるで向ふの感情を害するだけだ。困ったなあ。」と云ひながら、ずんずん赤くはれて行く頬《ほほ》を鏡で見てゐました。向ふで親方がまだ腹が立ってゐると見えて、斯《か》う云ったのです。
「なあに毒蛾なんか、市中|到《いた》る処《ところ》に居るんだ。私の店だけに来たんぢゃないんだ。毒蛾についちゃこっちに何の責任もないんだ。」
紳士は、渋々《しぶしぶ》、又椅子に座って、
「おい、早くあとをやってしまって呉《く》れ早く。」と云ひました。そして、しきりに変な形になって行く顔を気にしながら、残りの半分のひげを剃《そ》らせてゐました。
私の方のアーティストは、しきりに時計を見ました。そして無暗《むやみ》に急ぎました。
まるで私の顔などは、二十五秒ぐらゐで剃ってしまったのです。剃刀《かみそり》がスキーをやるやうに滑《すべ》るのです。その技術には全く感心しましたが、又よほど恐《こは》かったのです。
「さあお洗ひいたしませう。」
私は、大理石の洗面器の前に立ちました。
アーティストは、つめたい水でシャアシャアと私の頭を洗ひ時々は指で顔も拭《ぬぐ》ひました。
それから、私は、自分で勝手に顔を洗ひました。そして、も一度椅子にこしかけたのです。
その時親方が、
「さあもう一分だぞ。電気のあるうちに大事なところは済ましちまへ。それからアセチレンの仕度はいゝか。」
「すっかり出来てゐます。」小さな白い服の子供が云ひました。
「持って来い。持って来い。あかりが消えてからぢゃ遅いや。」親方が云ひました。
そこでその子供の助手が、アセチレン燈を四つ運び出して、鏡の前にならべ、水を入れて火をつけました。烈《はげ》しく鳴って、アセチレンは燃えはじめたのです。その時です。あちこちの工場の笛は一斉に鳴り、子供らは叫び、教会やお寺の鐘まで鳴り出して、それから電燈がすっと消えたのです。電燈のかはりのアセチレンで、あたりがすっかり青く変りました。
それから私は、鏡に映ってゐる海の中のやうな、青い室《へや》の黒く透明なガラス戸の向ふで、赤い昔の印度《インド》を偲《しの》ばせるやうな火が燃されてゐるのを見ました。一人のアーティストが、そこでしきりに薪《まき
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