らさっきの若い男がぽろっと出て来た。それから手を大きく振ったやうに見えた、と思ふと、おゝい、サキチ、と叫ぶ声が聞えて来た。見ると荷馬車が一台おいてある。その横から膝《ひざ》の曲った男が出て来て二人一緒に小屋へ入った。さあ大変だと署長が思ってゐたら間もなく二人は大きな二斗|樽《だる》を両方から持って出て来た。そしてどっこいといふ風に荷馬車にのっけてあたりをじっと見まはした。馬が黒くてかてか光ってゐたし谷はごうと流れてしづかなもんだった、署長はもう興奮して頭をやけに振った。二人はまた小屋へ入った。そして又腰をかゞめて樽を持って来た。と思ったらすぐあとからまた一人出て来た。そして荷馬車の上に立って川下の方を見てゐる。二人はまた中へ入った、そしてまた樽を持って出て来たもんだ、(さあ、これでもう六斗になるまさかこれっきりだらう、これっきりにしても月六石になる大した脱税だ)と署長は考へた。ところがまた出て来た。そしてまた入ってまた出て来た。もう一石だ月十石だと署長はぐるぐるしてしまった。ところが又入ったのだ。こんどは月十二石だ、それからこんどは十四石十六石十八石、二十石とそこまで署長が夢のやうに計算したときは荷馬車の上はもう樽《たる》でぎっしりだった。すると三人がそれへ小屋の横から松の生枝をのせたりかぶせたりし出した。
見る間にすっかり縛られて車が青くなり樽が見えなくなってもう誰《たれ》が見ても山から松枝をテレピン工場へでも運ぶとしか見えなくなった。荷馬車がうごき出した。馬がじっさい蹄《ひづめ》をけるやうにし、よほど重さうに見えた。するとさっきの若い男は荷馬車のあとへついた。それから十間ばかり行く間一番おしまひに小屋から出た男は腕を組んで立って待ってゐたが俄《には》かに歩き出してやっぱりついて行った。(実に巧妙だ。一体こんなことをいつからやってゐたらう。さあもうあの小屋に誰も居ない、今のうちにすっかりしらべてしまはう、証拠書類もきっとある。)税務署長は風のやうに三角山のてっぺんから小屋をめがけてかけおりた。ところが小屋の入口はちゃんと洋風の錠が下りてゐたのだ。(さあもういよいよ誰も居ない。あいつが村まで行って帰るまでどうしても二時間はかゝる。どこからか入らなけぁならない。)税務署長は狐《きつね》のやうにうろうろ小屋のまはりをめぐった。すると一とこ窓が一分ばかりあいてゐた。署長はそこへ爪《つめ》を入れて押し上げて見たらカラッと硝子《ガラス》は上にのぼった。もう有頂天になって中へ飛び込んで見るとくらくて急には何も見えなかったががらんとした何もない室《へや》だった。煙突の出てるのは次の室らしかった。急いでそっちへかけて行って見たらあったあったもう径二|米《メートル》ほどの大きな鉄釜《てつがま》がちゃんと煉瓦《れんぐゎ》で組んで据ゑつけられてゐる。署長は眼をこすってよく室の中を見まはした。隅《すみ》の棚《たな》のとこにアセチレン燈が一つあった。マッチも添へてあった。すばやくそれをおろしてみたらたったいま使ったらしくまだあつかった。栓《せん》をねぢって瓦斯《ガス》を吹き出させ火をつけたら室の中は俄《には》かに明るくなった。署長はまるで突貫する兵隊のやうな勢でその奥の室へ入った。そこは白い凝灰岩をきり開いた室でたしか四十坪はあると署長は見てとった。奥の方には二十石入の酒樽が十五本ばかりずらっとならび横には麹室《かうじむろ》らしい別の室さへあったのだ。おまけにビューレットも純粋培養の乳酸菌もピペットも何から何まで実に整然とそろってゐたのだ。(あゝもうだめだ、おれの講演を手を叩《たた》いて笑ったやつはみんな同類なのだ。あの村半分以上引っ括《くく》らなければならない。もうとても大変だ)署長はあぶなく倒れさうになった。その時だ、何か黄いろなやうなものがさっとうしろの方で光った。
見ると小屋の入口の扉《と》があいて二人の黒い人かげがこっちへ入って来てゐるではないか。税務署長はちょっと鹿踊《ししをど》りのやうな足つきをしたがとっさにふっとアセチレンの火を消した。そしてそろそろとあの十五本の暗い酒だるのかげの方へ走った。足音と語《ことば》ががんがん反響してやって来た。「いぬだいぬだ。」「かくれてるぞかくれてるぞ。」「ふんじばっちまへ。」「おい、気を付けろ、ピストルぐらゐ持ってるぞ。」ズドンと一発やりたいなと署長は思った。とたん、アセチレンの火が向ふでとまった。青じろいいやな焔《ほのほ》をあげながらその火は注意深くこっちの方へやって来た。「酒だるのうしろだぞ」二人は這《は》ふやうにそろそろとやって来た。
署長はくるくると樽の間をすりまはった。
そしたらたうとう桶《をけ》と桶の間のあんまりせまい処へはさまってのくも引くもできなくなってしまった。
アセチレンの
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