廻ってゐるやうに思はれました。そして、たうとう、大きなてっぺんの焼けた栗《くり》の木の前まで来た時、ぼんやり幾つにも岐《わか》れてしまひました。
 其処《そこ》は多分は、野馬の集まり場所であったでせう、霧の中に円い広場のやうに見えたのです。
 達二はがっかりして、黒い道を又戻りはじめました。知らない草穂《くさぼ》が静かにゆらぎ、少し強い風が来る時は、どこかで何かが合図をしてでも居るやうに、一面の草が、それ来たっとみなからだを伏せて避けました。
 空が光ってキインキインと鳴ってゐます。それからすぐ眼の前の霧の中に、家の形の大きな黒いものがあらはれました。達二はしばらく自分の眼を疑って立ちどまってゐましたが、やはりどうしても家らしかったので、こはごはもっと近寄って見ますと、それは冷たい大きな黒い岩でした。
 空がくるくるくるっと白く揺らぎ、草がバラッと一度に雫《しづく》を払ひました。
(間違って原を向ふ側へ下りれば、もうおらは死ぬばかりだ)と達二は、半分思ふ様に半分つぶやくやうにしました。それから叫びました。
「兄《あい》な[#「な」は小書き]、兄な[#「な」は小書き]、居るが。兄な[#「な」は小書き]。」
 又明るくなりました。草がみな一斉に悦《よろこ》びの息をします。
「伊佐戸《いさど》の町の、電気工夫の童《わらす》ぁ、山男に手足ぃ縛らへてたふうだ。」といつか誰《たれ》かの話した語《ことば》が、はっきり耳に聞えて来ます。
 そして、黒い路が、俄《にはか》に消えてしまひました。あたりがほんのしばらくしいんとなりました。それから非常に強い風が吹いて来ました。
 空が旗のやうにぱたぱた光って翻へり、火花がパチパチパチッと燃えました。
 達二はいつか、草に倒れてゐました。
 そんなことはみんなぼんやりしたもやの中の出来事のやうでした。牛が逃げたなんて、やはり夢だかなんだかわかりませんでした。風だって一体吹いてゐたのでせうか。
 達二はみんなと一緒に、たそがれの県道を歩いてゐたのです。
 橙《だいだい》色の月が、来た方の山からしづかに登りました。伊佐戸の町で燃す火が、赤くゆらいでゐます。
「さあ、みんな支度はいゝが。」誰かが叫びました。
 達二はすっかり太い白いたすきを掛けてしまって、地面をどんどん踏みました。楢夫《ならを》さんが空に向って叫んだのでした。
「ダー、ダー、ダー、ダー、ダースコダーダー。」それから、大人が太鼓を撃ちました。
 達二は刀を抜いてはね上りました。
「ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」
「危なぃ。誰だ、刀抜いだのは。まだ町さも来なぃに早ぁぢゃ。」怪物の青仮面《あをめん》をかぶった清介《せいすけ》が威張って叫んでゐます。赤い提灯《ちゃうちん》が沢山|点《とも》され、達二の兄さんが提灯を持って来て達二と並んで歩きました。兄さんの足が、寒天のやうで、夢のやうな色で、無暗《むやみ》に長いのでした。
「ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」
 町はづれの町長のうちでは、まだ門火を燃して居ませんでした。その水松樹《いちゐ》の垣に囲まれた、暗い庭さきにみんな這入《はひ》って行きました。
 小さな奇麗な子供らが出て来て、笑って見ました。いよいよ大人が本気にやり出したのです。
「ホウ、そら、遣《や》れ。ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」「ドドーン ドドーン。」
 「夜風さかまき ひのきはみだれ、
[#ここから2字下げ]
月は射そゝぐ 銀の矢なみ、
打ぅつも果てるも 一つのいのち、
太刀《たあち》の軋《きし》りの 消えぬひま。ホッ、ホ、ホッ、ホウ。」
[#ここで字下げ終わり]
 刀が青くぎらぎら光りました。梨《なし》の木の葉が月光にせはしく動いてゐます。
「ダー、ダー、スコ、ダーダー、ド、ドーン、ド、ドーン。太刀はいなづま すゝきのさやぎ、燃えて……」
 組は二つに分れ、剣がカチカチ云ひます。青仮面《あをめん》が出て来て、溺死《いっぷかっぷ》する時のやうな格好《かくかう》で一生懸命跳ね廻ります。子供らが泣き出しました。達二は笑ひました。
 月が俄《には》かに意地悪い片眼になりました。それから銀の盃《さかづき》のやうに白くなって、消えてしまひました。
(先生の声がする。さうだ。もう学校が始まってゐるのだ。)と達二は思ひました。
 そこは教室でした。先生が何だか少し瘠《や》せたやうです。
「みなさん。楽しい夏の休みももう過ぎました。これからは気持ちのいゝ秋です。一年中、一番、勉強にいゝ時です。みなさんはあしたから、又しっかり勉強をするのです。どなたも宿題はして来たでせうね。今日持って来た方は手をあげて。」
 達二と楢夫《ならを》さんと、たった二人でした。
「明日は忘れないでみなさん持って来るのですよ。もし、ぜんたい、してしまはなかった人があっても、やはりその儘《まま》、持って来るのです。すっかりしてしまはなかった人は手をあげて。」
 誰も上げません。
「さうです。皆さんは立派な生徒です。休み中、みなさんは何をしましたか。そのうちで一番面白かったことは何ですか。達二さん。」
「おぢいさんと仔馬を集めに行ったときです。」
「よろしい。大へん結構です。楢夫さん。あなたはお休みの間に、何が一番楽しかったのですか。」
「剣舞《けんばひ》です。」
「剣舞をあなたは踊ったのですか。」
「さうです。」
「どこでですか。」
「伊佐戸《いさど》やあちこちです。」
「さうですか。まあよろしい。お座りなさい。みなさん。外にも剣舞に出た人はありますか。」
「先生、私も出ました。」
「先生、私も出ました。」
「達二さんも、さうですか。よろしい。みなさん。剣舞は決して悪いことではありません。けれども、勿論《もちろん》みなさんの中にそんな方はないでせうが、それでお銭《あし》を貰《もら》ったりしてはなりません。みなさんは、立派な生徒ですから。」
「先生。私はお銭を貰ひません。」
「よろしい。さうです。それから……。」
 達二は、眼を開きました。みんな夢でした。冷たい霧や雫《しずく》が額に落ちました。空は霧で一杯で、なんにも見えません。俄《には》かに明るくなったり暗くなったりします。一本のつりがねさうが、身体《からだ》を屈《かが》めて、達二をいたはりました。
 そして達二は又うとうとしました。そこで霧が生温《なまぬる》い湯のやうになったのです。可愛らしい女の子が達二を呼びました。
「おいでなさい。いゝものをあげませう。そら。干した苹果《りんご》ですよ。」
「ありがど、あなたはどなた。」
「わたし誰でもないわ。一緒に向ふへ行って遊びませう。あなた驢馬《ろば》を有《も》ってゐて。」
「驢馬は持ってません。只《ただ》の仔馬ならあります。」
「只の仔馬は大きくて駄目《だめ》だわ。」
「そんなら、あなたは小鳥は嫌《きら》ひですか。」
「小鳥。わたし大好きよ。」
「あげませう。私はひはを有ってゐます。ひはを一|疋《ぴき》あげませうか。」
「えゝ。欲しいわ。」
「あげませう。私今持って来ます。」
「えゝ、早くよ。」
 達二は、一生懸命、うちへ走りました。美しい緑色の野原や、小さな流れを、一心に走りました。野原は何だかもくもくして、ゴムのやうでした。
 達二のうちは、いつか野原のまん中に建ってゐます。急いで籠《かご》を開けて、小鳥を、そっとつかみました。そして引っ返さうとしましたら、
「達二、どこさ行く。」と達二のおっかさんが云ひました。
「すぐ来るがら。」と云ひながら達二は鳥を見ましたら、鳥はいつか、萌黄《もえぎ》色の生菓子に変ってゐました。やっぱり夢でした。
 風が吹き、空が暗くて銀色です。
「伊佐戸《いさど》の町の電気工夫のむすこぁ、ふら、ふら、ふら、ふら、ふら、」とどこかで云ってゐます。
 それからしばらく空がミインミインと鳴りました。達二は又うとうとしました。
 山男が楢《なら》の木のうしろからまっ赤な顔を一寸《ちょっと》出しました。
(なに怖いことがあるもんか。)
「こりゃ、山男。出はって来《こ》。切ってしまふぞ。」達二は脇差《わきざ》しを抜いて身構へしました。
 山男がすっかり怖がって、草の上を四つん這《ば》ひになってやって来ます。髪が風にさらさら鳴ります。
「どうか御免《ごめ》御免《ごめ》。何《な》じょなことでも為《さ》んす。」
「うん。そんだら許してやる。蟹《かに》を百疋捕って来《こ》。」
「ふう。蟹を百疋。それ丈《だ》けでようがすかな。」
「それがら兎《うさぎ》を百疋捕って来《こ》。」
「ふう。殺して来てもようがすか。」
「うんにゃ。わがん[#「ん」は小書き]なぃ。生ぎだのだ。」
「ふうふう。かしこまた。」
 油断をしてゐるうちに、達二はいきなり山男に足を捉《つか》まれて倒されました。山男は達二を組み敷いて、刀を取り上げてしまひました。
「小僧。さあ、来《こ》。これから俺《お》れの家来だ。来う。この刀はいゝ刀だな。実に焼きをよぐかげである。」
「ばか。奴《うな》の家来になど、ならなぃ。殺さば殺せ。」
「仲々づ太ぃやづだ。来《こ》ったら来《こ》う。」
「行がない。」
「ようし、そんだらさらって行ぐ。」
 山男は達二を小脇《こわき》にかゝへました。達二は、素早く刀を取り返して、山男の横腹をズブリと刺しました。山男はばたばた跳ね廻って、白い泡を沢山吐いて、死んでしまひました。
 急にまっ暗になって、雷が烈《はげ》しく鳴り出しました。
 そして達二は又眼を開きました。
 灰色の霧が速く速く飛んでゐます。そして、牛が、すぐ眼の前に、のっそりと立ってゐたのです。その眼《め》は達二を怖《おそ》れて、横の方を向いてゐました。達二は叫びました。
「あ、居だが。馬鹿だな。奴《うな》は。さ、歩《あ》べ。」
 雷と風の音との中から、微《かす》かに兄さんの声が聞えました。
「おゝい。達二。居るが。達二。達二。」
 達二はよろこんでとびあがりました。
「おゝい。居る、居る。兄《あい》なぁ。おゝい。」
 達二は、牛の手綱をその首から解いて、引きはじめました。
 黒い路が又ひょっくり草の中にあらはれました。そして達二の兄さんが、とつぜん、眼の前に立ちました。達二はしがみ付きました。
「探《さが》したぞ。こんたな処《どご》まで来て。何《な》して黙って彼処《あそご》に居なぃがった。おぢいさん、うんと心配してるぞ。さ、早く歩《あ》べ。」
「牛ぁ逃げだだも。」
「牛ぁ逃げだ。はあ、さうが。何にびっくりしたたがな。すっかりぬれだな。さあ、俺《おら》のけら着ろ。」
「一向寒ぐなぃ。兄《あい》な[#「な」は小書き]のなは大きくて引き擦《ず》るがらわがん[#「ん」は小書き]なぃ。」
「さうが。よしよし。まづ歩《あ》べ。おぢいさん、火たいで待ってるがらな。」
 緩い傾斜を、二つ程昇り降りしました。それから、黒い大きな路について、暫《しば》らく歩きました。
 稲光が二度ばかり、かすかに白くひらめきました。草を焼く匂《にほひ》がして、霧の中を煙がほっと流れてゐます。
 達二の兄さんが叫びました。
「おぢいさん。居だ、居だ。達二ぁ居だ。」
 おぢいさんは霧の中に立ってゐて、
「あゝさうが。心配した、心配した。あゝ好《え》がった。おゝ達二。寒がべぁ、さあ入れ。」と云ひました。
 半分に焼けた大きな栗の木の根もとに、草で作った小さな囲ひがあって、チョロチョロ赤い火が燃えてゐました。
 兄さんは牛を楢《なら》の木につなぎました。
 馬もひひんと鳴いてゐます。
「おゝむぞやな。な。何ぼが泣いだがな。さあさあ団子たべろ。食べろ。な。今こっちを焼ぐがらな。全体何処迄行ってだった。」
「笹長根《ささながね》の下《お》り口だ。」と兄が答へました。
「危ぃがった。危ぃがった。向ふさ降りだらそれっ切りだったぞ。さあ達二。団子喰べろ。ふん。まるっきり馬こみだぃに食ってる。さあさあ、こいづも食べろ。」
「おぢいさん。今のうぢに草片附げで来るべが。」と達二の兄さんが云ひました。
「うんにゃ。も
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