して団子ではなくて、そのとなりの草の上にくの字になって落ちている、嘉十の白い手拭らしいのでした。嘉十は痛い足をそっと手で曲げて、苔の上にきちんと座《すわ》りました。
 鹿のめぐりはだんだんゆるやかになり、みんなは交《かわ》る交《がわ》る、前肢《まえあし》を一本環の中の方へ出して、今にもかけ出して行きそうにしては、びっくりしたようにまた引っ込めて、とっとっとっとっしずかに走るのでした。その足音は気もちよく野原の黒土の底の方までひびきました。それから鹿どもはまわるのをやめてみんな手拭のこちらの方に来て立ちました。
 嘉十はにわかに耳がきいんと鳴りました。そしてがたがたふるえました。鹿どもの風にゆれる草穂《くさぼ》のような気もちが、波になって伝わって来たのでした。
 嘉十はほんとうにじぶんの耳を疑いました。それは鹿のことばがきこえてきたからです。
「じゃ、おれ行って見で来《こ》べが。」
「うんにゃ、危ないじゃ。も少し見でべ。」
 こんなことばもきこえました。
「何時《いつ》だがの狐《きつね》みだいに口発破《くちはっぱ》などさ罹《かか》ってあ、つまらないもな、高で栃の団子などでよ。」
「そだそだ、全ぐだ。」
 こんなことばも聞きました。
「生ぎものだがも知れないじゃい。」
「うん。生ぎものらしどごもあるな。」
 こんなことばも聞えました。そのうちにとうとう一疋が、いかにも決心したらしく、せなかをまっすぐにして環からはなれて、まんなかの方に進み出ました。
 みんなは停《とま》ってそれを見ています。
 進んで行った鹿《しか》は、首をあらんかぎり延ばし、四本《しほん》の脚《あし》を引きしめ引きしめそろりそろりと手拭《てぬぐい》に近づいて行きましたが、俄《にわ》かにひどく飛びあがって、一目散に遁《に》げ戻ってきました。廻りの五疋も一ぺんにぱっと四方へちらけようとしましたが、はじめの鹿が、ぴたりととまりましたのでやっと安心して、のそのそ戻ってその鹿の前に集まりました。
「なじょだた。なにだた、あの白い長いやづあ。」
「縦に皺《しわ》の寄ったもんだけあな。」
「そだら生ぎものだないがべ、やっぱり蕈《きのこ》などだべが。毒蕈《ぶすきのこ》だべ。」
「うんにゃ。きのごだない。やっぱり生ぎものらし。」
「そうが。生きもので皺うんと寄ってらば、年老《としよ》りだな。」
「うん年老りの番兵だ。ううはははは。」
「ふふふ青白の番兵だ。」
「ううははは、青じろ番兵だ。」
「こんどおれ行って見べが。」
「行ってみろ、大丈夫《だいじょうぶ》だ。」
「喰《く》っつがないが。」
「うんにゃ、大丈夫だ。」
 そこでまた一疋が、そろりそろりと進んで行きました。五疋はこちらで、ことりことりとあたまを振《ふ》ってそれを見ていました。
 進んで行った一疋は、たびたびもうこわくて、たまらないというように、四本の脚を集めてせなかを円《まろ》くしたりそっとまたのばしたりして、そろりそろりと進みました。
 そしてとうとう手拭のひと足こっちまで行って、あらんかぎり首を延ばしてふんふん嗅《か》いでいましたが、俄かにはねあがって遁げてきました。みんなもびくっとして一ぺんに遁げだそうとしましたが、その一ぴきがぴたりと停まりましたのでやっと安心して五つの頭をその一つの頭に集めました。
「なじょだた、なして逃げで来た。」
「噛《か》じるべとしたようだたもさ。」
「ぜんたいなにだけあ。」
「わがらないな。とにかぐ白どそれがら青ど、両方のぶぢだ。」
「匂《におい》あなじょだ、匂あ。」
「柳の葉みだいな匂だな。」
「はでな、息《いぎ》吐《つ》でるが、息《いぎ》。」
「さあ、そでば、気付けないがた。」
「こんどあ、おれあ行って見べが。」
「行ってみろ」
 三番目の鹿《しか》がまたそろりそろりと進みました。そのときちょっと風が吹いて手拭がちらっと動きましたので、その進んで行った鹿はびっくりして立ちどまってしまい、こっちのみんなもびくっとしました。けれども鹿はやっとまた気を落ちつけたらしく、またそろりそろりと進んで、とうとう手拭まで鼻さきを延ばした。
 こっちでは五疋がみんなことりことりとお互《たがい》にうなずき合って居《お》りました。そのとき俄かに進んで行った鹿が竿立《さおだ》ちになって躍《おど》りあがって遁げてきました。
「何《な》して遁げできた。」
「気味悪《きびわり》ぐなてよ。」
「息《いぎ》吐《つ》でるが。」
「さあ、息《いぎ》の音《おど》あ為《さ》ないがけあな。口《くぢ》も無いようだけあな。」
「あだまあるが。」
「あだまもゆぐわがらないがったな。」
「そだらこんだおれ行って見べが。」
 四番目の鹿が出て行きました。これもやっぱりびくびくものです。それでもすっかり手拭の前まで行って、いかにも思い切
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