ぶやきました。そしてからだをかゞめて、そろりそろりと、そつちに近《ちか》よつて行《ゆ》きました。
一むらのすすきの陰《かげ》から、嘉十《かじふ》はちよつと顔《かほ》をだして、びつくりしてまたひつ込《こ》めました。六|疋《ぴき》ばかりの鹿《しか》が、さつきの芝原《しばはら》を、ぐるぐるぐるぐる環《わ》になつて廻《まは》つてゐるのでした。嘉十《かじふ》はすすきの隙間《すきま》から、息《いき》をこらしてのぞきました。
太陽《たいやう》が、ちやうど一本《いつぽん》のはんのきの頂《いたゞき》にかかつてゐましたので、その梢《こずゑ》はあやしく青《あを》くひかり、まるで鹿《しか》の群《むれ》を見《み》おろしてぢつと立《た》つてゐる青《あを》いいきもののやうにおもはれました。すすきの穂《ほ》も、一本《いつぽん》づつ銀《ぎん》いろにかがやき、鹿《しか》の毛並《けなみ》がことにその日《ひ》はりつぱでした。
嘉十《かじふ》はよろこんで、そつと片膝《かたひざ》をついてそれに見《み》とれました。
鹿《しか》は大《おほ》きな環《わ》をつくつて、ぐるくるぐるくる廻《まは》つてゐましたが、よく見《み》るとどの鹿《しか》も環《わ》のまんなかの方《はう》に気《き》がとられてゐるやうでした。その証拠《しようこ》には、頭《あたま》も耳《みゝ》も眼《め》もみんなそつちへ向《む》いて、おまけにたびたび、いかにも引《ひ》つぱられるやうに、よろよろと二足《ふたあし》三足《みあし》、環《わ》からはなれてそつちへ寄《よ》つて行《ゆ》きさうにするのでした。
もちろん、その環《わ》のまんなかには、さつきの嘉十《かじふ》の栃《とち》の団子《だんご》がひとかけ置《お》いてあつたのでしたが、鹿《しか》どものしきりに気《き》にかけてゐるのは決《けつ》して団子《だんご》ではなくて、そのとなりの草《くさ》の上《うへ》にくの字《じ》になつて落《お》ちてゐる、嘉十《かじふ》の白《しろ》い手拭《てぬぐひ》らしいのでした。嘉十《かじふ》は痛《いた》い足《あし》をそつと手《て》で曲《ま》げて、苔《こけ》の上《うへ》にきちんと座《すは》りました。
鹿《しか》のめぐりはだんだんゆるやかになり、みんなは交《かは》る交《がは》る、前肢《まへあし》を一本《いつぽん》環《わ》の中《なか》の方《はう》へ出《だ》して、今《いま》にもかけ出《だ》して行《い》きさうにしては、びつくりしたやうにまた引《ひ》つ込《こ》めて、とつとつとつとつしづかに走《はし》るのでした。その足音《あしおと》は気《き》もちよく野原《のはら》の黒土《くろつち》の底《そこ》の方《はう》までひゞきました。それから鹿《しか》どもはまはるのをやめてみんな手拭《てぬぐひ》のこちらの方《はう》に来《き》て立《た》ちました。
嘉十《かじふ》はにはかに耳《みゝ》がきいんと鳴《な》りました。そしてがたがたふるえました。鹿《しか》どもの風《かぜ》にゆれる草穂《くさぼ》のやうな気《き》もちが、波《なみ》になつて伝《つた》はつて来《き》たのでした。
嘉十《かじふ》はほんたうにじぶんの耳《みゝ》を疑《うたが》ひました。それは鹿《しか》のことばがきこえてきたからです。
「ぢや、おれ行《い》つて見《み》で来《こ》べが。」
「うんにや、危《あぶ》ないじや。も少《すこ》し見《み》でべ。」
こんなことばもきこえました。
「何時《いつ》だがの狐《きつね》みだいに口発破《くちはつぱ》などさ罹《かゝ》つてあ、つまらないもな、高《たか》で栃《とち》の団子《だんご》などでよ。」
「そだそだ、全《まつた》ぐだ。」
こんなことばも聞《き》きました。
「生《い》ぎものだがも知《し》れないじやい。」
「うん。生《い》ぎものらしどごもあるな。」
こんなことばも聞《きこ》えました。そのうちにたうたう一|疋《ぴき》が、いかにも決心《けつしん》したらしく、せなかをまつすぐにして環《わ》からはなれて、まんなかの方《はう》に進《すゝ》み出《で》ました。
みんなは停《とま》つてそれを見《み》てゐます。
進《すゝ》んで行《い》つた鹿《しか》は、首《くび》をあらんかぎり延《の》ばし、四本《しほん》の脚《あし》を引《ひ》きしめ引《ひ》きしめそろりそろりと手拭《てぬぐひ》に近《ちか》づいて行《い》きましたが、俄《には》かにひどく飛《と》びあがつて、一|目散《もくさん》に遁《に》げ戻《もど》つてきました。廻《まは》りの五|疋《ひき》も一ぺんにぱつと四方《しはう》へちらけやうとしましたが、はじめの鹿《しか》が、ぴたりととまりましたのでやつと安心《あんしん》して、のそのそ戻《もど》つてその鹿《しか》の前《まへ》に集《あつ》まりました。
「なぢよだた。なにだた、あの白《しろ》い長《なが》いやづあ。」
「縦《たて
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